鎌倉の仇討ち!曾我兄弟の仇討ちとは?

どうも、りかちゅうです!鎌倉初期にとある仇討ちがありました。たしかに、鎌倉時代は色々確執やら争いはありました。鎌倉殿を見ている人ならばそれくらいは分かりますよね。ですが、この仇討ちは日本史の中でも大規模な仇討ちです。なんて言う仇討ちなのか早く言えよって?それは曾我兄弟の仇討ちです。実はこの仇討ちは鎌倉殿にも匂わせされていました。ちなみに、軽くネタバラシしますがこの仇討ちには八重さんのお兄さんが歓迎します。後ほど話しますが八重さんの家は不幸ではありますね。では、一体どういった仇討ちだったのか?この記事にて話したいと思います!

曾我兄弟の仇討ちとは何か?

曾我兄弟の仇討ちについてどういうものかわからない方もいると思います。ですので、まずはどういうものなのかを簡単に話しますね!

概要

曾我兄弟の仇討ちとは、曾我祐成と曾我時致の兄弟が自分のお父さんこと河津祐泰の仇である工藤祐経を討ち取った事件です。この仇討ちは「赤穂浪士の仇討ち(忠臣蔵のことです)」と「伊賀越の仇討ち」と並び日本三大仇討ちの1つでもあります。

ちなみに、殺し方としては駿河国富士野(今でいう静岡県富士宮市)で頼朝が催した巻狩の最中に工藤祐経を討ちました。たしかに、これで復讐はできました。ですが、兄の祐成は討ち死に、弟の時致は捕縛されてから処刑されました。ただ、頼朝は兄弟の死後は手厚く葬るように命じたそうです。

河津祐泰の最期

補足として曾我兄弟のお父さんである河津祐泰がどういう死に方をしたのかについても話しますね。河津祐泰は狩り場から帰る途中に工藤祐経の郎党に襲撃されいなくなります。その当時曾我祐成は5歳、曾我時致は3歳でした。そして、河津祐泰の妻は2人わ連れて曾我祐信という武士と再婚しました。だから、2人の苗字が河津ではなく曾我なんです!

曾我兄弟と工藤祐経の関係は?

この仇討ちの事件を知るには曽我兄弟と工藤祐経の関係が分からないと始まらないと思います。ですので、その関係も話しますね!曾我兄弟のお父さんの河津祐泰は伊東祐親の長男です。となると、八重さんのお兄さんでもあります。となると、曾我兄弟というのは鎌倉殿の主人公でもある義時の従兄弟にあたります。また、工藤祐経は伊東祐親の娘と結婚をしていますので工藤祐経と曾我兄弟は身内関係です。この構図を見ても分かると思いますがごく近い間柄のなかで起きた事件です。今の時代にはなかなかないですけどね。それもあって、鎌倉殿で曾我兄弟が子供の時に工藤祐経に石をぶつけるために北条義時の館に来ることが出来たんです!

曾我兄弟の仇討ちの詳細

なんか、身近な関係でも対立するのがあの時代です。北条家だってそうですからね。では、具体的にどうやって仇討ちが起きたのか?

1.富士の巻狩り

頼朝が駿河国富士野で巻狩りをすることを部下である梶原景時に伝えます。巻狩りとは遊興・軍事訓練の一環として行われる狩りです。この話は曾我時致の耳に入りました。そこで、2人はこの時に仇討ちをしようと考えました。ただ問題なのがターゲットが登場しないことです。狩りは3日連続で行われたんですよ。曾我兄弟もちろん工藤祐経の隙をうかがっていましたよ?それなのになかなか登場しません。そんな時、狩りが終わり武将たちが次々に屋形に入ります。もちろん曾我兄弟も屋形に入ります。そして、自分達のお母さんに手紙を書きます。内容は曾我兄弟ともに命を捨てる覚悟であること、母のこれからを祈っていることなどです。この時点で屋形で工藤祐経を襲うと決めたんだと思います。

2.いざ、仇討ち!

1193年5月28日の夜中に仇討ちを決行します。え?鎌倉幕府が開いて間もないのに仇討ちと思いますよね?そんなこともあるのが鎌倉時代です。工藤祐経は屋形で寝ていました。工藤祐経の姿を確認した曾我祐成は肩に刀を刺しながら声をかけ工藤祐経を起こします。祐経が起き上がるとすぐに曾我祐成が斬りつけました。そして、曾我時致も斬りかかります。これによって2人は工藤祐経を討ち果たしました。その際にたまたま工藤祐経の酒の相手をしていた大森隆盛という神職も一緒に討たれています。

これで終わりなわけないです。この騒ぎを聞いてやってきた10人の武士と曾我兄弟のバトルが始まります。これを十番切と言います。結果としては曾我兄弟がこの10人を倒します。どんだけ強いんだよと思いますね。ただ、さらに数人の武士が駆けつけ、その中の1人である新田四郎と曾我祐成の壮絶な斬り合いが始まります。疲弊してきた曾我祐成は、新田四郎から致命傷を受けなくなりました。

ただ、曾我祐成は亡くなる直前に頼朝のところへ行けと曾我時致に言い残します。曾我時致はそれに従い頼朝の目前まで到達したと言われます。その際に頼朝は曾我時致を撃つために刀を手に取りましたが曾我時致は五郎丸という従者に取り押さえられました。これでこの騒動はおしまいです。

3.曾我時致の尋問

頼朝は曾我時致に尋問を行います。その時の曾我時致は20歳で堂々としていました。その姿に頼朝は感動して泣いたと言われています。ですが、頼朝が重用していた工藤祐経を討ったことと頼朝にまで歯向かったため曾我時致が許されることはありませんでした。それ故に頼朝は免罪しようとしたものの梶原景時の忠告を受けて曾我時致を獄門に処しました。

曾我兄弟の仇討ちのその後

結論としては復讐のために仇討ちを果たしたのに兄弟ともになくなりました。まあ、仇討ちは罰せられますよね。それで、2人の首は頼朝の命令により曾我の里へ運ばれました。もちろん、そこで火葬されたと言われていますよ。そして、頼朝は、兄弟の養父である曾我祐信に今後の年貢を免除しました。なぜならば、頼朝は免除された分は兄弟の供養に使うようにして欲しかったからです。おそらく、頼朝は曾我兄弟の仇討ちに対して心を動かされたのかと思われます。なぜならば、曾我時致への尋問と、仇討ち寸前に2人が母に書いた手紙を頼朝が見て心が動いたからです。

ここまでは感慨深くなりすよね。ただ、ここからが問題です。この事件はもちろん政子にも伝えられました。その際に誤って伝わったことから政子は「頼朝が討たれた」と勘違いした説があります。この出来事がそのことが今度は頼朝の弟こと源範頼を苦しめることにつながります。またまた不吉な雰囲気の始まりですね。

鎌倉殿での匂わせ

曾我兄弟の仇討ちに関しては2022年の大河ドラマこと「鎌倉殿の13人」で匂わせがありました。それは義時に士官の世話を依頼に来たシーンです。工藤祐経が2人の男の子から「人殺し」と言われて石を投げつけれたのを覚えていますよね?そのシーンです。ドラマなのもあって詳しい説明がなかったため、何のことだかわからない人もいるかと思います。私もこの記事を書くまでは分からなかったです。なんで子供が人殺しだなんて言うんだってなりましたもん。実はあれ曾我兄弟の仇討ちの伏線なんです。まさかのあんなところで結びつくなんて思ってもなかったですね。

まとめ

感想としては2つあります。1つ目は親近者でこんな事件あるんだなと。昔ならあるあるとは言えども、三代仇討ちに入ってしまうからこそマジかよとなりましたね。2つ目は改めて復讐って何も生まれないんだなと思いました。たしかに、弟は堂々として頼朝を感動させたとは言えども結果として処刑です。それならばしない方が命はあったと思います。でも、本人からしたら命を捨ててでも復讐したかったんでしょうね。まあ、とにかく、何かしら印象に残ったと思えばいいです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました!

りかちゅう