幕末の名物!尊王攘夷運動とは何か?

どうも、りかちゅうです!幕末の名物と言っても過言ではない運動ってご存知ですか?なんだよそれって?とぼけないでくださいよ。尊王攘夷運動ですって。おそらく、この用語は聞いたことがある人はいるかと思われます。聞いたことないという人がいたらそれは忘れているということでしょう。それくらい学校の教科書や試験に出てくるものです。てか、なんでそんなにゴリ押ししてるのって。実は尊王攘夷運動は倒幕のきっかけになる出来事の一種であります。また、かなり盛大な運動でもありました。ということで、この記事では尊王攘夷運動とはどのようなものかについて話したいと思います!

尊王攘夷とは何か?

まずは尊王攘夷とは何かを忘れている方もいるとは思うのでおさらいとして尊王攘夷とはどのようなものかについて話したいと思います!尊王攘夷とは日本か開国してから盛んになった主張や思想です。そこに運動がついたらいわゆるデモみたいな感じですね。ちなみに尊王とは天皇を尊敬するという思想で攘夷は外国勢力を日本から追い出せという思想です。要するに、天皇を敬い外国人を追い出せということです。ちなみに、尊王も攘夷も儒教の思想から来たものです。その話に関しては長くなるため割愛させていただきます。普通に調べれば出てきますwwwwwww。

尊王攘夷運動が起きた理由

以上が尊王攘夷運動の概要です。これだけでどういう運動かは分かったかと思われます。ただ、なんでそんなことが起きたんだよとなった方はいるかと思われます。ですので、尊王攘夷運動が起きた理由について話しますね!

1.日本が開国したから

江戸時代の日本って鎖国状態で最低限の国しか交流していなかったかと思われます。ポルトガルとかその対象でしたね。ですが、幕末になると日本は開国せざる得なくなりました。簡単に説明するとまずペリーが1853年にペリーが来航しました。ただ、その時は来航しただけで終わりました。ですが、翌年の1854年に日米和親条約が結ばれました。これが日本の開国です。 また、1858年に朝廷の反対を押し切って日米修好通商条約を結びました。そのことによって外国勢力の追い出しを主張する攘夷派の人々の勢いが強くなりました。

2.貿易の影響

日本は開国し貿易をするようになってから打撃を受けるようになりました。幕末の日本で行われた貿易は居留地貿易と言われています。それで、居留地から動けない外国人に変わって商人達が品物を集めて外国人に売っていました。ただ、日本人の商人が高値で品物を集めたことによって物価が上がりました。これにより庶民の生活は困窮したことで攘夷論は強まりました。

3.公武合体の影響

その当時の大老でもある井伊直弼が桜田門外の変で死んだ後幕府は自分の力だけでは政を維持するのが困難になりました。本当に弱ってますね。そこで、天皇の力を借りようとしました。これが公武合体です。協力して政治を安定させる感じですね。公武合体派は孝明天皇の妹、和宮と徳川家茂の結婚をすすめました。まあ、これ自体はうまくいったものの尊王攘夷派は天皇を政治利用していると幕府を批判しました。まあ、そう思われても仕方ないです。

尊王攘夷運動を起こした藩

こんな感じで尊王攘夷は起きました。簡単に言えばポンコツ幕府へのヘイトと開国のせいで起きた運動と思えばいいです。では、具体的にどの藩が尊王攘夷運動を起こしたのか?

1.水戸藩

水戸黄門の水戸藩です。徳川家の御三家でもありました。ちなみに水戸藩は理屈っぽい、怒りっぽい、骨っぽいとされていたそうです。そんな人達が尊王攘夷派として真っ先に出てきました。これは過激になりかねないですね。特に徳川斉昭はひたすら攘夷を主張していました。これは青天を衝けを見ればわかります。

2.長州藩

水戸藩と同じように長州も尊王攘夷運動をする志士が多く出ますました。ちなみに長州藩は、関ヶ原の戦いで西軍についた側で領地を半分以下に減らされた立場です。これって毛毛利家の子孫だよねと思いますよね?そうです!その恨みもあるからなのか倒幕に傾くのは早い方ではありました。ちなみに関ヶ原に負けてから関ヶ原の恨みを忘れるなというマインドは強かったそうです。それならば関ヶ原の時強気で動けよと三成は言いますね?

3.土佐藩

土佐勤王党を立ち上げた武市半平太こと武市瑞山を中心に尊王攘夷志士がいました。ですが、瑞山の切腹によって土佐の尊王攘夷派は事実上壊滅しました。それ以降は後藤象二郎などの公武合体派が力を増していきました。これを見ても尊王攘夷派の勢力派落ちていくんですけどね。

4.薩摩藩

有馬新七などの尊王攘夷派がやはりいました。ですが、寺田屋事件で事実上なくなりました。その後は幕府の力に失望はしたことから薩長同盟を結び倒幕へと動いていきます。

尊王攘夷運動の影響

このように尊王攘夷運動とはかなり大規模なものであるのは分かったかと思われます。まあ、きっかけが幕府の政が影響していますしね。では、一体どのような影響があったのか?

1.攘夷の終了

攘夷を決行したのは事実です。外国を追い出そうと攻撃をしました。ですが、いずれも失敗しました。それはそうです。あの時の日本よりも海外の方が強かったですからね?ちなみに戦国時代だったら日本は勝っていました。戦国時代の日本はゴールドラッシュでしたからね。それ以外にも信長が燃えない船を作るなど色々な伝説はありました。なのになのにって感じですよ。本当に。特に、薩摩藩や薩摩藩や長州藩は下関戦争で海外勢力と戦ったものの失敗していますしね。ただ、負けたことで海外の勢力を知ってからは攘夷の考えは捨てました。このように攘夷にこだわっても無駄なことが分かったことから攘夷運動は終わりました。

 

2.尊王倒幕運動にチェンジ!

先ほど攘夷は終わったと言いましたよね?ですが、尊王は終わっていません。どういうことかと言いますと攘夷運動でのトラブルで幕府は問題解決できませんでした。もう弱小幕府ですからね?こんな姿家康が見たらどうなんでしょうね?きっとマジかよという反応をするかと思われます。彼が色々作ったわけですしね。そんな話はさておき、その当時の幕府は賠償金を支払うことしかできませんでした。

それを見たみんなはこのまま幕府に政治を任せていいのかとなりました。どんだけ弱小なんだよって感じですね。あの時の威厳はどこに行ったのだろうか。これは長州藩だけでなく薩摩藩にも芽生えます。そこで、幕府を倒して天皇中心の国にしないとと考える人が増えて尊王倒幕という思考にチェンジしました。このきっかけがあったことから第一次長州征伐で敵同士だった薩摩藩と長州藩は薩長同盟を結び、倒幕を進めることになりました。

まとめ

尊王攘夷運動を調べて思うこととしては幕末って関ヶ原に負けた組ほど強いのかなと思いました。まあ、土佐藩と水戸藩は例外ですけどね。あの藩は徳川側でしたから。ただ、それ以外の藩に関しては関ヶ原に負けた側です。ちなみに、この記事には書きませんでしたが真田家も倒幕に加わった藩です。これを見ても負けた怨念がすごいというのか徳川が滅びそうになったら巻き返すみたいなノリがあるのかなと思いました。これが幕末ロマンですし尊王攘夷運動はそのうちの1つなのかと思われます。要は幕末とは関ヶ原が負け側が倒幕してると思っても過言ではないかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう