貴族なのに武闘派?藤原隆家とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!今回は私が思う「光る君へ」のイケメン枠について話しますね。イケメン枠と言えば公任の町田くんではあるのかと思われます。町田くんってどのドラマでもイケメンって言われますよね。ただ、私は竜星涼くん派ですね。イケメンでも面白いオーラが出ているから魅力に思うというのか。それもあって、私は竜星涼くんが光る君へに出ると知った時は嬉しかったしいつ出るのかなとも思いました。その竜星涼くんは誰役なのって?藤原隆家です。彼は道隆の次男です(定子は姉ですけどね)。彼に関しては伊周と長徳の変を起こしましたがある出来事のおかげで英雄となります。なんかすごいというのか。ですので、この記事にて話しますね。

藤原隆家のプロフィール

 

名前 藤原隆家

生年月日 979年

没年 1044年2月2日(享年65歳)

備考

道隆の次男です。なんか道長も一目置いた中関白家の荒くれ者だそうです。そのため、のちほど話しますが刀伊の入寇を撃退したしうです。

藤原隆家の人生

以上が隆家のプロフィールです。表舞台から去っても勇敢なことをしたことで活躍しましたね。では彼はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

隆家は979年に藤原摂関家の嫡男こと道隆の次男として生まれました。となると長男は伊周で定子の弟でもあります。そのため、989年隆家は11歳で元服すると従五位下になったそうです。それ以降も伊周とともにトントン拍子に出世していき994年には従三位となり公卿に列しました。

2.藤原頼忠の前で破天荒なことをする

一見は坊ちゃんです。ですが、隆家は破天荒です。その出来事は大鏡に描かれています。この当時のしきたりとして、高貴な人のお屋敷の前は遠慮して避けて通るのが習慣でした。ですが、隆家はそんなことはお構いなしです。一条天皇の即位後政争に敗れて関白を退いた太政大臣・藤原頼忠と詮子の屋敷前をわざと覗き見しながらゆっくり進み馬上で扇を大げさに振って通ったそうです。これをみた頼忠は隆家を思いやりのない男とみなしたそうです。

3.道長の随身を殺害

破天荒様はまだまだあります。995年4月に父の道隆が亡くなりました。その後は道長が実権を握ります。これは道隆の子供達はいい思いもしないため道長と仲良くやれるわけがないです。そのため道長が家督を継いだわずか2ヵ月後に隆家の従者と道長の従者が乱闘事件を起こしその翌月には隆家の従者が道長の随身を殺害する事件を起こしてしまいました。

4.長徳の変と左遷

伊周はある女性のと交際していましたが花山法皇も彼女の屋敷に通っていると勘違いしました。そこで、伊周は隆家に相談し2人は家来を引き連れて花山法皇の一行を襲いました。その際に隆家は花山法皇の従者2人を殺害してしまったのです。この殺害噂はすぐに広まりました。もちろんそこをついたのは道長です。これは左遷の道しかないです。隆家は出雲国へと左遷されました。ただ、隆家は出雲国に赴任する途中、病気を理由に但馬国に留まっていました。

5.京都に戻る

事件から2年後の998年に隆家たちは恩赦によって京へ戻ることができました。この時は一条天皇の母である藤原詮子が病気となり回復を祈るために徳を高めようとして行われた恩赦だったそうです。京に帰ってからは反省して真面目に働いたのか隆家はこつこつと昇進していきました。ですが、1000年に難産の末に姉の定子と寛弘1010年に兄の伊周が亡くなったことで家の盛衰が肩に掛かりました。そのため、政治の場にも出てくるようになったものの、1番は道長です。また、子供の頃のヤンチャ事件のせいで隆家には人望もありませんでした。

6.眼の治療のために太宰府へ

1012年の末頃に隆家は尖ったもので目に傷を負いそこから眼病にかかってしまいました。そんな中、大宰府には腕の良い眼の医者がいるという噂を聞きます。そこで、隆家は大宰権帥というポジションをに志願します。どういうポジションかというと大宰府の仮長官です。本来長官は定員が決まっているものです。ですが、平安以降は定員以上の人数を任命したいときに「権」をつけて任命したそうです。ですが、道長は九州の勢力と隆家が結びつくのを警戒しこれを妨害します。とは言えども道長の妨害はなんとかなりました。なんか当時の天皇である三条天皇は隆家と同じ眼病を患っていたこともあり隆家の大宰府行きを後押したからだそうです。そんなこともあって1014年11月にようやく大宰権帥に任命されました。

7.刀伊の入寇と最期

大宰府に赴任した隆家は地元民たちに慕われたようでずいぶんと評判がよかったようです。愛嬌の良さが影響してそうですね。

そして、彼の晴れ舞台がやってきます。何があったのって?隆家が九州に来て5年後の1019年に九州北部が外国の海賊に襲われるという事件が起こりました。これが「刀伊の入寇」です。刀伊は当時の朝鮮半島を支配していた高麗の言葉で東の蛮族のことを言っています。その刀伊はまず高麗を襲い50艘を超える船で対馬、壱岐、筑前を襲撃と奪略しました。その影響で対馬の国司は船で脱出し大宰府へ報告することができましたものの壱岐の国司は討死してしまいます。一方報告を受けた大宰府は博多にあった警固所という防御施設で待機しました。その警備の指揮を取った1人が隆家です。隆家らは刀伊を見事撃退し博多から追い払いました。それから刀伊はその後肥前国の松浦を襲いましたが当時そこを領していた武士団に反撃され撤退していきました。

隆家はこの出来事がきっかけで九州内での人気が上がりました。しかも面白いことに九州武士団には隆家の子孫を名乗る家も多いそうです。もう隆家は貴族ではなく武士扱いした方がいいのではと思いますね?隆家はその後大宰府から京に帰ってきましたが、1037年から1042年まで再び大宰権帥を務め1044年に満65歳で亡くなりました。

藤原隆家のエピソード

以上が隆家のエピソードです。ヤンチャだからこそのエピソードもあります。ですので、彼の面白いエピソードについて話しますね。

1.清少納言との関係性

隆家は清少納言とも面識があったため枕草子にも少しだけ登場します。基本的には宮中のイベント事に定子の弟としてちょっと名前が出てくる程度ではあるそうです。ただ、1つだけ清少納言と隆家と定子がやりとりするエピソードが書かれているのです。それが九八段の 「中納言まゐりたまひて」です。

隆家が17歳頃の話です。

定子がめったに手に入らない珍しい骨を手に入れたからそれに貼る最上の紙を探していると話をしてきたそうです。そんなこと言われたら誰もがどんな骨と思うし聞きますよね?

「とにかく誰も見たことがないすごい骨だ」と言ったところ、清少納言が「それはクラゲの骨ですか」と会話に入りました。その答えが気に入った藤原隆家は「それを自分が言ったことにしてくれ」と伝えたというエピソードがあります。藤原隆家はユーモアがあり、お調子者の性格であったことが分かる場面です。

2.意志が強い

隆家は意志が強くてくじけない性格だったと伝わっています。光る君へのなかでも一家没落の目に遭いながら冷静かつ闊達な性格で乗り越えていくと言われています。竜星涼くんがどんな演技をするのか気になりどころですね。

3.弓使いがヤンチャ

弓に関しては天下のさがな者とウワサされたくらいだそうです。さがなって何って?「性悪」「荒くれ」「手に負えない」とマイナスな意味です。要するにやんちゃと思えばいいです。しかも弓の腕もなかなかだったらしいです。ファンキーなだけじゃないんですね。詳細としては10月の弓場始です。御堂関白記は「権中納言(隆家のことです)がよく射た第一人者であった」と書かれていたり小右記では「よく射た者の第一は権中納言で最初の矢を的に当てた」と書かれていたらするなど褒められている文面はあります。

まとめ

次男坊な感じが伺えますね。ヤンチャな所やなんか愛嬌よくてちゃっかりしている所など。同じ坊ちゃんでも長男の伊周とは違う何かを感じましたね。また、伊周よりも成果は作れたことからただのヤンチャにはならずに済んだ存在だなとは思っています。私的には武士として生まれた方が輝けたのにと思いましたね。これを見てもなにもないイケメンではないと思います(伊周がイケメンなら次男の隆家もイケメンなはず)。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう