今川義元の嫡男!今川氏真とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!桶狭間の戦いでは今川義元が討たれましたね。世間的にはあの今川が討たれたという事実は衝撃ではありました。それくらい大規模な家ではありました。ですな、その後の今川は滅んではいません。実は嫡男の今川氏真が跡を継ぎました(今川義元が有名なののもあってマイナーですけどね)。驚きですよね?あの時点で滅んでいないなんて。私は桶狭間で今川は滅んでいたと思い込んでいました。ただ、桶狭間の戦いで大ダメージを喰らってしまったことから今川は今川氏真の代で終わってしまいました(一応生きたので子孫はいます)。それもあって、今川氏真はポンコツだと言う評価もあります。政治には携わっていないとですが、それ以外の一面もあります。ですので、この記事にて詳しく話したいと思います!

今川氏真のプロフィール

まずは今川氏真とはどんな人かを知るためにもプロフィールから見ていきましょう!肖像画がないので溝端淳平の写真にしますね。溝端淳平かっこいいですね!

名前 今川氏真

生年月日 1538年

出身地 駿府国(今の静岡県です)

没年 1614年12月28日(享年77歳)

実は事実上滅んだものの生きていました。その話に関しては後ほど話したいと思います。

備考

今川義元の嫡男です。今川氏真の代で今川家は終わったものの家康に保護されたことから今川氏真は生きることになりました。そして、今川家は名前を変えて存続しました。

今川氏真の人生

以上が今川氏真のプロフィールです。では一体彼はどんな人生を歩んだのか?

1.桶狭間の戦いの後に家督を継ぐ

今川氏真は1538年に駿河国の大名こと今川義元の嫡男として生まれました。ちなみに今川氏真のお母さんは甲斐国の武田信虎の娘です。幼少期の史実はそれくらいですね。マイナーな人なのでしょうがないです。ただ、あるハプニングが起きます。それは1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にしました。それにより急遽10代目として家督を継承しました。22歳で跡を継ぐって無茶振りです。しかも、桶狭間の打撃は大きかったことから体勢を立て直すことは難しいものでした。どれだけ大変だったか?実は7年足らずで領国である駿河・遠江・三河は武田・徳川・北条氏に奪われるくらいです。強い家と言われていたのにあっけなく取られましたね。

2.武田に攻められる

まず家康が信長と清州同盟結んで今川家から独立しました。今川氏真は家康を攻めましたが三河は家康のものとなりました。さらに、今川家では、老臣の三浦義鎮が国政の実権を握って位たたいめ他の重臣が反発していました。統制が乱れていますね。

立て直すのも困難です。そんな時にトリプルパンチとなる事件が起きます。なんと甲斐の武田信玄が1567年に信玄の息子こと武田義信に嫁いだ氏真の妹を駿府に送り返し、同盟を破棄しました。それに対して今川氏真は武田に食塩の禁輸政策を指します。ですが、1568年に信玄は家康と同盟を結び駿河に侵入しました。その影響で駿府城は焼かれ、今川氏真は掛川城に移りました。

3.城と支配権を奪われる

掛川城は今川家の重臣こと朝比奈泰熙によって築かれた城です。今川氏真が移り住むと1569年に家康軍により攻撃、包囲されます。今川は防戦しましたがついに掛川城も明け渡すことにしました。掛川城を退去した今川氏真は駿府城の修復まで戸倉城に在城することになります。ただ、駿府城は信玄の進攻によって、武田軍の手中になってしまいました。今川氏真は城を失ったことになりますね。そこで、戦国の北条に保護されました。その際に駿河の支配権は北条氏政に奪われてしまいます。

4.家康に保護される

1571年に北条がその同盟関係を上杉から武田に変えるなどめちゃくちゃでした。それもあって今川氏真は放逐され、家康のもとに身を寄せたのでした。これで今川家は事実上滅亡しました。ですが、今川氏真は家康に保護される生活を送ったため子孫は残りました。表には出られなくなったということですね。

5.家康の保護のもとで生涯を終える

今川氏真は家康により三河の牧野城主に封ぜられていますが1577年には、これを没収されたとあります。その際に今川氏真は「本意の時が来たならば再び奉公すべし」という離散の証文を家臣に与えました。ですが、その願いも叶わず、家康のもとで世話になり続けます。どうやら武蔵の品川に屋敷をあてがわれたそうです。そして、今川氏真は1614年12月28日に77歳でいなくなりました。その後彼の子孫は絶えずに存続しました。ですが、江戸時代では今川とは名乗らず品川と称して代々高家となったそうです。

無能だと言われている

最終的には家を滅させてしまったことから無能な奴みたいな扱いはされています。具体的には蹴鞠や和歌などをやっているだけで政治には疎かだったなんて言われています。ただ、これは負けてしまったからこのような評価になっているだけです。負けたら悪く言われるのはお決まりです。では何をしたのか?実は信長よりも前に楽市政策、徳政令の発布、役の免除などの政策を行っていたそうです。また、外交面では戦国の北条との連携を維持を維持したり、幕府の相伴衆に列し、領国の混乱を収めようとしたりした説もあります。このように、ちゃんと政治にも携わっていたという話はあります。

まとめ

滅亡した後も生きていたことは衝撃でした。家康のおかげですね。きっと人質時代にお世話になった家だから家康今川氏真を保護したんでしょうね。本当に運がいいです。もしそれがなかったら今川の子孫はいなかったと言っても過言ではありません。というか、品川と改名して高家となる家となっていたなんて衝撃です。一度は落ちぶれたものの家康のおかげで今川の名前はなくても復活しましたね。このようなことを踏まえると今川と徳川は繋がりが強いなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうござました。

りかちゅう