御成敗式目の人!北条泰時とはどんな人

どうも、りかちゅうです!御成敗式目とはご存知ですかね?学校で習ったこと間違いなしです。簡単に言えば鎌倉幕府の頃に作られた武士のルールです。それで、これを作ったのは誰か?それは北条泰時です。北条泰時とは2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公こと北条義時の息子でありかつ3代目執権です。義時、泰時続きですね。

でも、なんでこの人の話をするのかって?もちろん、大河ドラマでそのあたりの話があるからするのはもちろんですよ。ただそれだけではないです。この方がいなかったら北条家は長く続かなかったと言っても過言ではないです。父親の北条義時が独裁的な感じでもあったからこその話なんですけどね。ですので、この記事にて北条泰時とはどんな人なのかについて話したいと思います!

北条泰時のプロフィール

まず北条泰時のことを知るためにもプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 北条義時

幼名 金剛

生年月日 1183年

出身地 相模国

今の神奈川県鎌倉市です。北条泰時が生まれた頃にはもう北条家は鎌倉にいたということですね。

没年 1242年7月14日(享年60歳)

 

北条泰時の人生

以上が北条泰時のプロフィールです。では、北条泰時とはどのような人生を歩んだのか?

1.源平合戦真っ最中に生まれる

北条泰時は1183年に相模国にて2代目執権こと北条義時の長男として生まれました。となると、北条政子の甥でもありますね。ちなみに幼名は金剛と言います。。強そうな名前をしていますね。きっと強い家にするぞという意味合いはあると思います。それで、彼が生まれた時は源平合戦の真っ最中です。治承・寿永の乱で時系列から見ても源平合戦の終わり時です。

性格は破天荒ではないですが謙虚で聖人だったそうです。北条泰時が10歳くらいの頃とある御家人が北条泰時とすれ違った時、その御家人が下馬しなかったことに頼朝は激怒したものの本人は気にしないという感じだったらしいです。お偉い立場でも謙虚でいたということですね。

 

2.三浦義村の娘と結婚

1194年に北条泰時は元服しました。もうこの時は平家は滅び、源氏の時代になりましたね。そして、1202年には有力な御家人かつ北条家とも関係が強い三浦義村の娘と結婚し、すぐに子供もできました。そして、その時期ど同時に鎌倉幕府二代将軍・源頼家、次いで三代将軍・源実朝に仕えていました。実朝は北条家によって殺されますけどね。このような背景から北条泰時や北条時政や北条義時の政治的・軍事的な動きも見ながら育ったのかと思われます。

3.承久の乱と六波羅探題

1121年に39歳になった北条泰時は承久の乱の総大将になりました。承久の乱とは簡単に言えば後鳥羽上皇と北条家の戦いですね。しかも天皇の命令こと宣旨を無視した前代未聞の戦いを見事にこなし幕府方の大勝利に終わりました。それで、この功績から新たに京都に設置された六波羅探題の初代代表に選ばれました。さすがのしごできですね!

4.評定衆の設置

1224年に北条義時が亡くなってから北条泰時が後を継ぎました。その際に義時のやり方を踏襲する形で行なったり北条政子に助言を求めていたりしました、ですが、

1225年になるとこれまで幕府を支えてくれた重鎮の大江広元や北条政子が次々と亡くなってしまい今までのやり方ではできないとなりました。今までのやり方とは北条家中心のやり方です。このやり方でやっていけたのは大江広元や北条政子などのベテランが裏で色々とやっていたからです。そこで、北条泰時は御家人が不満を持たないような政治をしなければならないと考えました。そこで、評定衆という組織を1225年に作りました。ちなみに評定衆には執権と後ほど話す連署と他御家人11人、合計13人が参加したそうです。

5.連署の設置と御成敗式目

北条泰時ならではの政策はまだまだあります。まず、連署を設置しました。連署とは強い権限を持つ執権をフォローする係です。初代連署は北条時房がやりました。北条時房とは北条泰時の叔父かつ北条義時の弟です。でも、なぜそのようにしたのか?それは北条家の調和を保つためかと思われます。やはり、血族で争っては組織力が弱まります。そこで連署を設置したのかと思われます。また、集団で指導するという体制を整えたいからそのような政策をしたのかと思われます。

あと、北条泰時といえば御成敗式目です。決まり事って思えばいいです。この話に関しては後ほど話したいと思います!

 

6.朝廷問題

朝廷関係に関してはシビアにやっていたそうです。まず、1121年の承久の乱の後、鳥羽上皇と順徳上皇は島流しに。そして、乱に関与はしてない土御門上皇も咎めないのはおかしいと自ら土佐に流されます。ちなみに土御門上皇は聖人のように優しい人だったそうです。このようなことから天皇即位には幕府の意向を伺う必要があるという前例を作りました。ただ、このやり方が南北朝のバトルにつながります。そして1242年2月に後嵯峨天皇を即位させてから7月にいなくなりました。享年60歳です。最後の方は字数の関係上、端折りました。申し訳ございません。

御成敗式目とはどのようなもの?

北条泰時と言えば御成敗式目です。おそらく、日本史の授業で覚えたはずです。テストに出る問題ですからね。では、御成敗式目とはどのようなものだったのか?

まず御成敗式目を作った理由は徹底した集団指導政治の実現したかったからです。北条家を長く続けるために作ったのかと思われます。また、今までにも法律はありましたが公家や貴族の目線で作った法律で武家社会には疑問を持たれてました。それもあって1から改善しようとしたのかと思われます。

ちなみに、御成敗式目は全部で51条で誰が読んでも分かりやすい言葉で書かれているそうです。また、内容としては武士としてのマインドから仕事、土地の決まり事や裁判の基準となるあらゆるルールが書いてあるそうです。そして、決まりを守ってほしいということから全国に配りました。色々徹底してて素晴らしいですね。

 

北条泰時の人物像

性格は人望もあり人格に優れていたのか、武士からも貴族からもあまり悪い評価なかったそうです。なんか、幕府の実質トップであるのにもかかわらず質素で慎ましい生活を送っていたそうです。また、質素剛健で公正公平であったことから武士の理想とする政治家として評価されていたそうです。北条義時ボロクソに言われているのに跡継ぎの評価はいいのはなかなかですね。おそらく、お父さんの考えでやっていくことはできないと感じ取ったから違うやり方で統治したのかと思われます。ただ、北条家も3代目までです。それ以降はグダグダ劇場の始まりです。そこは江戸時代と同じです。

まとめ

先ほども述べたように鎌倉幕府も北条泰時がいなくなってからは以いい感じではないです。やはり、生まれながら跡継ぎとなる人間以降は苦労を知らないことから弱まるのは当然なのかもしれませんね。歴史は繰り返すとはこういうことです。ただ、北条泰時が北条家を長く続けるようにしたことでなんとか保った面はあるのかなと思われます。武士としてのルールをきちんと決めることや独裁制にはしないことなど色々な工夫をしたからこその鎌倉幕府だと思います。ですので、感謝されるべき存在なのかなと個人的には思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう