鎌倉初代将軍!源頼朝とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!鎌倉幕府の初代将軍は誰でしょう!もちろん、源頼朝です。そんなの常識、タッタタラリラですね。今日は頼朝のことを話すのかって?そうですね。皆さんもうこのパターンに慣れましたね←。まあ、そんなことはさておき、頼朝は本当に運がいいです。その運の良さから今の鎌倉幕府があります。もし彼がいなかったら今頃どうなってたんですかね?きっと源平合戦ななかったと思います。また、北条家がここまで強くなることはないです。源氏が消えてから北条が色々引き継ぎましたからね。となると、もし頼朝がいなかったら鎌倉殿で義時が主役になりませんね。このように、今にも繋がっています。ですので、この記事にて頼朝を紹介しますね!

※リード文は鎌倉殿ヲタクの人目線で書きました。

頼朝のプロフィール

まあ、皆さんご存知かと思いますが一応頼朝のプロフィールを書きますね!きっと知らない気づきとか見つかるはずです。

 

名前 源頼朝

生年月日 1147年5月16日

出身地 尾張国愛知郡熱田

今でいう愛知県名古屋市熱田区です。初っ端は京での生活ですが、生まれはなぜか尾張です。

没年 1199年2月16日(享年53歳)

備考

腹違いではあるものの、頼朝にはたくさんの兄弟がいました。基本的には年下が多いです。

頼朝の人生

頼朝のプロフィールに関してはこんな感じです。尾張出身なことがびっくりですね。では、頼朝はどんな人生だったのか?

1.朝廷に出仕

1147年に源頼朝は尾張国にて源義朝の三男として生まれます。また、お母さんは熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘である由良御前です。その方は義朝の正室です。しかも、兄2人は側室の子供でした。それ故に頼朝は嫡男の子として育てられ12歳のころに朝廷へ出仕しました。皇后の事務を取り扱使ったり二条天皇の蔵人、警備などをやったそうです。それだけ期待されていたんでしょう。ですが、しかし1159年に平治の乱て義朝は負けてしまいました。その時の頼朝は13歳です。それ故に頼朝は20年間伊豆に流されます。

2.伊豆へ島流しと政子との出会い

伊豆にで頼朝が過ごしたのは北条時政が治めていた蛭ヶ小島という土地でした。もちろん監査役の人はいました。とは言えども窮屈な暮らしはしてなかったです。仏教に帰依していました。伊豆山権現、箱根権現などにかよって源氏の祖先を熱心に勉強していました。また、庶民と接する機会が多くそのことが頼朝に武家政権の構想を抱かせたそうです。

そんな生活をしている中、政子と出会いました。鎌倉殿では政子から好きになりましたが真相は分かりません。ただ、色々な反対はあったものの結婚をし頼朝は北条家とのコネクトを強くしました。この結婚が義時との出会いでもありますね。

3.平家討伐

島流しの生活もこれまでです。20年間長かったですね。ただ、これからが逆転劇です。平家の調子の乗り様が気に食わなくなり以仁王が平家討伐の声を挙げました。それで、頼朝はそれに乗っかります。ですが、初っ端の石橋山の戦いで負けます。殺されそうになったものの、梶原景時が見逃してくれたことでなんとかなりました。また、初めは負けたものの上総広常が味方してくれたことや義経の実績により平家を滅ぼしました。ここら辺は話が長くなるので他の記事を見てください!まあ、簡単に言えば味方がたくさん増えてここまで来れたということです。

4.義経とのバトル

平家を滅ぼしたら鎌倉幕府だぞ!とは言えないことがありました。それは義経とのバトルです。たしかに、平家を滅ぼすまでは2人は仲間でした。ですが、義経が勝手に検非違使になるなど調子に乗りすぎちゃったことから2人の関係は悪化しました。頼朝からしたら義経の勢力が強くなったらヤバいと思ったんでしょうね。それ故に関係が悪化してしまいました。一応義経は平治の乱以降に暮らしていた奥州藤原の家まで行きます。ですが、頼朝側は追いかけます。結果として義経は負けました。そして、奥州藤原氏は滅びました。

5.征夷大将軍

まあ、色々あったものの、1992年に征夷大将軍になりました。とは言えども、1185年に守護、地頭を置くなど何かしらのことはしていたんですけどね。それによって幕府を開く前から既に朝廷が所有する領地の統治を幕府に任せることになってはいました。要するに、幕府に政権を委ねたということですね。このように、鎌倉幕府の基礎は作っていました。また、自分の権威を見せるために巻狩りなどのイベントをしましたね。これくらいしか書けなくてすいません。ただ、幕府を開いて数年後に頼朝死んじゃうんです。

6.晩年

頼朝は有名な人物なのにもかかわらず、晩年に関してはそこまでデータはないんです。後鳥羽天皇との姻戚関係を結ぶために上洛し朝廷工作を行ったくらいですね。あれで大姫は精神的にやられていなくなりましたが…。あれはかわいそうとしか言いようがないですね。こんなデータがない中どういう最期なんだよって?一応分かってることとしては1198年の暮れに、北条政子の妹のために建てられた相模川の橋供養に出かけた時の帰路で落馬したそうです。それ以降体調を崩し、翌年の1月13日にいなくなりました。

頼朝の人物像

頼朝の人生はこんな感じです。色々あっての最期でしたね。では、頼朝の性格はどうだったのか?今から話しますね!

1.運がいい!

鎌倉殿を見ても運がいいのは分かりますよね?私的には頼朝は殺されないで伊豆に島流しされたことから運の良さははじまっていたのかなと思います。男の子だったら殺されていた可能性もありますからね。静御前が産んだ赤ちゃんがまさにそうですね。また、石橋山の戦いでも梶原景時が頼朝を殺さずに見逃してくれたからたとえあの時負けたとしてもなんとかなりました。まあ、梶原景時は頼朝に何か期待があったのかもしれませんが。それ以外にも無敵な奴こと義経や影の存在の範頼という弟もいました。このように、運が頼朝を味方してくれたからここまで来たのかなと思います。

2.女好き!

これは話さないと気が済まない奴ですwwwwwwwwww。頼朝は女好きです。亀の前事件は伝説じゃないのかなと個人的には思っていますwwwwwwww。しかも、それ以外にも騒動は起こしてるそうですしね。まあ、ここに関しては政子と価値観が違かったから起きた事件ではあります。頼朝は京育ちなので女は複数いるものだって常識はありました。一方で政子は伊豆育ちで1人の人とずっと一緒という考えでした。それ故に色々トラブったのかもしれません。ただ、頼朝はいい年であったとしても女遊びをしていました。その点はなんかなと思います。また、遊ぶならば騒動にならないようにしろと思います。

※頼朝の女事情はこちらの記事に詳しく書かれています!

色恋多き男!頼朝の女癖事情と奥さん事情

まとめ

まとめは頼朝の話ではないです。誰の話をするんだよって?それは頼朝の奥さんこと政子です。頼朝がいなくなってからは政子は政治に携わっていました。もちろん、源氏を滅ぼし北条を強すくするなんてことはしていましたね。頼朝の息子などの身内の死などは北条が絡んでいましたからね。また、義時を手を組んで時政を陥れるなど。頼朝がいなくなってからは北条を強くするために生きていた気がします。それ故に頼朝の死後源氏は衰えました。盛者必衰とはこのことですね。このようなことを踏まえても、頼朝は盛者のままいなくなったと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう