色恋多き男!頼朝の女癖事情と奥さん事情

どうも、りかちゅうです!このタイトルは「僕の恋愛事情と台所事情」からパクりました。菊池くんがカバーしてくれたんですがいい感じでしたね。さすがの菊池くんだなと思いました。お前、本題を話せって?すいません。話します。あ、もし菊池くんの歌声聴きたかったら調べてください(この話はここまでにします)!それで、このタイトル通り頼朝は女癖が酷かったです。とりあえず、文献上には政子を含め4人の女の人が絡んできます。また、4人だけでは済まなかったそうです。きっと今でいうワンナイトはあったに違いないです。ですので、この記事にて色々話したいと思います!

頼朝は女癖悪かった?

きっと歴史に詳しい人ならば頼朝の女事情のことは分かると思いますが頼朝は女癖が悪かったです。政子がいながら女の関係はあったと言ってもいいです。鎌倉殿を見ていれば分かると思いますが隠れ家とか用意していましたよね…。しかも、ドラマの内容はほんの一部ですからね。でも、なんでそんなに女癖が悪かったのか?それは生まれた環境も影響していると思います。頼朝の出身地は京です。その当時の京は一夫多妻な文化でした。それもあって頼朝も影響されたんだと思います。

ちなみに頼朝のお父さんこと源義朝も女事情は色々あったと思います。番外編ですが源義朝の場合は京での政務の他、関東での地盤を固めていました。そのため、京都から鎌倉を往来していました。されで、源義朝の女性たちの出生地を見てみると京都・尾張・遠江国蒲御厨・松田・三浦と京都から鎌倉間に点在しています。そう考えると妻の出生地は源義朝の活動範囲となります。

頼朝の女事情の傾向

頼朝の女癖が悪かったことはなんとなくでも分かったかと思います。てわは、頼朝の女事情の傾向はどんな感じだったのか?
頼朝は源平合戦には参加しませんでした。正式に言うと現地では戦わないで指揮していた感じです。それ故に基本的に伊豆か鎌倉に腰を下ろしていました。となると、頼朝に関わった女性はほぼ伊豆か鎌倉ではあります。また、頼朝の乳母のほとんどが東国系の女性でした。ちなみに、吾妻鏡にも度々登場する有名な比企尼(武蔵国比企郡)や寒川尼(下野国寒川郡)・摩々局(相模国早河庄)・山内首藤俊経の母(相模国山内荘)などが頼朝の乳母だったそうです。

頼朝の女癖事情

先ほども述べたように文献に書かれているのは4人ではあります。では、その4人はどのような女性だったのか?

1.八重姫

頼朝の奥さんは政子だと思う人はいますが実は政子の前に八重という方と結婚していました。1175年頼朝が29歳の頃だそうです。でも、禁断な恋です。八重はその当時頼朝の監視役だった伊東祐親の娘でした。それなのに、八重は千鶴という男の子を産みました。伊東祐親の上京中の出来事で帰国してこの事実を知った伊東祐親は千鶴を殺し、八重を江間次郎に嫁がせてしまいます。一方頼朝は命を狙われたがなんとか逃げました。その後1180年に八重は伊東家の別館を抜け出し頼朝がいる北条氏邸を訪ねたものの、叶わず自害したそうです。

2.北条政子

これはみんなが知っている存在ですね。頼朝の正室です。出会いは1177年頃で頼朝31歳の頃だったそうです。政子の父である北条時政は二人の結婚を許し北条氏邸に住まわせていました。初めは許してなかったんですけどね。それで、頼朝が鎌倉入りしたら大御堂ヶ谷が政子の本邸であったと云われています。とは言えども色々大変だったそうです。政子と頼朝の詳細はこちらに書かれています!

頼朝と政子の恋愛事情と政子の嫉妬エピソード

3.亀の前

みんな大好き亀の前事件のあの亀の前です。亀の前は伊豆の人で良橋太郎入道が父だそうです。見かけは穏やかな感じで気の強そうな政子とは正反対のタイプだったと言われています。それで、伊豆から呼び寄せられた亀ノ前は小中太光家の小坪の家に住んでいたそうです。そして、頼朝は彼女の屋敷に通っていました。そんな時、1182年11月に亀ノ前をもっと鎌倉に近づけようと伏見広綱の飯島の屋敷に住まわせたせいで政子にバレてしまいます。そして、政子は飯島の屋敷を壊しました。それが亀の前事件です。詳しくはこちらを見てください!

頼朝の浮気相手?亀の前と政子と大事件

その後の亀の前に関しては色々諸説はあるそうです。

4.大進局

大進局は幕府の女官だったので頼朝と「御密通」の関係だったそうです。そして、1186年には頼朝の子となる貞暁を産みました。御産所は長門江七景遠の浜の宅と云われています。これはもう政子は激おこぷんぷん丸です。大進局母子は一時的に深沢の里に逃れ、のちに追放されるように京都へに行ったそうです。そして、子の貞暁は出家し僧侶として生涯を終えています。

それ以外にもいたかも?

文献で書かれていたのは4人だけではあります。ですが、それ以外にもいると言われています。ですので、その人達も紹介しますね!

1.妙悟尼

大椿寺というお寺に頼朝の妾だった妙悟尼の屋敷跡があったそうです。
彼女の出家前の素性に関しては情報がないので信憑性が薄いです。ですが、吾妻鏡には1194年8月1日、9月6日、1195年の1月25日、8月26日となに頼朝はその方の所に出向いているそうです。まあ、そういう女性がいても不思議ではないでしょうね?でも、なんで文献で言われなかったのか?推測としては遊女のような存在であったため特筆すべきことではなかったとは言われています。

2.祥寿姫

新田義重の娘にも頼朝は見染め恋文を出していたそうです。吾妻鏡には1182年7月14日と載せられています。ただ、吾妻鏡に彼女の名は記されていません。なんか、Wikipediaに祥寿姫とあるそうです。詳細としては頼朝は彼女からよい返事がなかったので、新田義重に話したました。そしたら、新田義重は政子の嫉妬を恐れ師六郎という者に祥寿姫を嫁がせてしまったそうです。それ故に頼朝が機嫌を損ねました。ただ、それだけではなく新田家は新田義貞が鎌倉を攻め落とすまで長い没落期を迎えることとなります。

政子はどう思っていたの?

政子の場合は1人の夫、1人の妻という考えを持っていました。伊豆にいた人間ですからね。一方で頼朝は先ほども述べたように元は京の人間なため一夫多妻な考えでした。このように、男女関係の価値観が違ったことから政子は頼朝の女癖事情を不満に思っていました。しかも、政子は怒ると怖い系女子なのでブチ切れるときも大胆です。もう亀の前事件が答えですよね。私も政子の立場だったら女嫌いなので同じようにブチ切れていると思います。きっと女に当たりが強くなる気しかしないです。一方で肝心な本人に関してはもっと当たりが強くなるかもしれません。

頼朝の女癖事情について思うこと

正直なことを言うと頼朝の女遊びは下手くそだなと思います。どこら辺が下手くそか?それは上手く隠せてないことです。亀の前事件がまさにそうだなと思います。亀の前を匿う人をお偉い人にしたから問題なんです。もっと上手く隠せよと思います。しかも、このような大騒動は亀の前事件だけじゃないですからね。その時点で下手くそだと思っています。

なんか、エセな遊び人としか言いようがないですね。本当の遊び人ならば本命は作らないと思います(現代の常識ならばそう思います)。でも、あの時代は側室がいてもいい時代なので100歩譲るって言うならば本命がブチ切れないようにするようにすると思います。

まとめ

この記事書いてて思ったんですが頼朝の遊び具合って今でいうおじさんの歳でもやってたんですね。はっきり言って痛いですね。若いうちならばまだ許せますがこれはもうちょっとねぇ?なんでそこまでして遊んでるのかと思っちゃいます。このようなことを踏まえても頼朝の女癖は私的には受け入れられないです。色々長く書いたので感想はこんな感じにしますね。最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう