頼朝と政子の恋愛事情と政子の嫉妬エピソード

どうも、りかちゅうです!歴史コラムなのになんかふざけたタイトルですいません。でも、この記事の概要はタイトル通りです。実は源頼朝こと頼朝と北条政子こと政子は政略結婚ではないです。むしろ、反対されていたけど恋愛結婚でした(反対していた理由に関しては後ほど話しますね)。これは知っている人ならば知っています。私は知っていました。なんかあの時代では珍しいですよね。また、政子はすごく嫉妬深かったそうです。そこに関しては私自身分からなかったです。このように、この2人の恋愛は普通ではないです。ですので、この記事にて色々話したいと思います!

結婚前の2人の人物像

まずは結婚前の頼朝と政子はどのような人物像だったかについて話しますね!

頼朝の場合

実は頼朝って政子より10歳年上なんですよ。まさかの年の差カップルです!それで、その頼朝は河内源氏の源義朝の三男として尾張に生まれました(尾張といえば信長ですね)。ちなみに、頼朝には2人のお兄さんがいました。ですが、2人とも異母兄でした。それ故に頼朝が実質的に義朝の後継者として扱われていました。ですが、義朝は平治の乱で平清盛に負けてしまったため平治の乱後に頼朝は蛭ヶ小島に流されます。今でいう静岡の伊豆です。その時頼朝は14歳でした。ただ、頼朝の生活は恵まれていました。なんと側近を持ち、京都の情勢を把握していたそうです。また、狩りに出掛けるなど自由に生活していたそうです。

政子の場合

政子は伊豆国の豪族であり武士である北条時政の長女です。また、2022年の大河ドラマの主人公の北条義時のお姉さんです。ちなみに北条家は伊豆では有名だったそうです。それもあって、平家の一門である伊豆国目代平兼隆(または山木兼隆)と政子を結婚させるという約束をしていました。俗にいう政略結婚ですね。それなのに頼朝に恋しちゃうんですね。ちなみに政子は晩婚だったそうです。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも頼朝は「それなりの年齢なのに結婚していないのはなぜだ」みたいなことを質問していましたね。

頼朝と政子の馴れ初め

流罪となった頼朝と豪族の娘だった政子。頼朝は源氏であるもののステータスは違いますね。では、この2人にはどのような馴れ初めで結婚したのか?

実は北条家 伊豆の地方役人でもありました。それ故に政子のお父さんこと北条時政は、流人である頼朝の監視役でした(政子のおじいちゃんこと伊藤祐親も監視役でした)。まあ、頼朝が何かしでかしたら平家側からしたら都合悪いから監査役があったんでしょうね?となると、2人が出会うなんてことはおかしくないですし出会ったのは事実です。それで、2人は出会って恋に落ちました。どちらかと言うと政子の方がぞっこんでしたね。

ただ、その当時は平家の世の中です。この恋仲を知った時政はその事実が平家一門に知られるのを恐れ猛反対しました。また、平兼隆との結婚の計画を進めるようにしました。ですが、2人は反対を押し切り屋敷を抜け出し、山道を忍んで駆け落ちしました。そして、政子と頼朝の間には大姫が生まれ、北条時政は二人の結婚を認めました。これを機にもちろん北条家は源氏派となります。

2人の恋愛観の違い

このように、反対されても押し切るようなカップルではありましたが2人には恋愛観の違いがありました。具体的にどんな違いがあるのか?

頼朝の場合は流罪になるまで京にいました。それもあって、貴族の生活も見ていました。それ故に、自分たちの血統を残すためにも貴族が多くの妾に子供を産ませることは当然という姿を見ていました。また、頼朝もそれを常識だと思っていたようです。ですが、政子は違います。東国出身であるため京の貴族の慣習なんて知らないです。だから、夫婦同権で一緒に家をもり立てるのが常識だと思ってました。このような価値観の違いから政子の嫉妬はすごかったです。

政子の嫉妬エピソード

にしても、どれだけすごかったんだよと思いますよね?今から話したいと思います!

1.側室の屋敷を襲撃?

政子の妊娠中、頼朝は亀の前という女性を寵愛しました。妊娠中って危険なんですかね?これを知った政子はもちろん嫉妬で激怒しました。なんと、時政の後妻のお父さんこと牧宗親に命じて亀の前がかくまわれていた伏見広綱の屋敷を襲撃させました。一応亀の前はなんとか逃げ出しました。ですが、事件はそれだけでは終わりません。この騒動に激怒した頼朝が宗親の髻を切り落とすという恥辱を与えました。そしたら、今度は北条時政が怒りました。なんかもう色んな人巻き込んでますね。それなのに政子の怒りは収まらず伏見広綱を流罪にしました。独占欲の強さが伺えます。

2.側室は政子を怖がっていた

政子が次女を妊娠しているときの話です。頼朝は大進局という女性と関係がありました。嫉妬深いこと分かっててそんなことするなんて…。それで、大進局は男の子をを産みます。ただ、政子の嫉妬を恐れて身を隠し、生まれた子は乳母のなり手もなかったといわれています。そして、7歳で京の仁和寺に出家しました。出家させた理由としては政子の目を気にていたからです。もちろん、当時は一夫多妻制です。また、源氏の棟梁として子孫を残すために多数の女性と関係を持つことも普通でしたよ?ですが、政子の嫉妬もあったため恐れ半ば隠れるように通っていたようです。

恋愛結婚が歴史を変えた

恋愛エピソードは普通ではないなとは誰もが思うはずです。特に政子の嫉妬姿には笑っちゃいますね。そんなこと本人に言ったら怒られますが(現実にはもういないから文面に残します)←。ですが、この恋愛結婚のおかげで平家よりも源氏の勢いが強くなり平安時代を滅亡させたと言っても過言ではありません。また、私的にはこの2人が結婚しなかったら平家を滅ぼすことができなかったと思います。やはり、頼朝は流罪の身ですから誰かしらの助っ人は必要です。そんな時、知恵のある北条家とのコネクトがあったからこそ頼朝は鎌倉幕府を作れたのかなと思われます。

ただ、その後は北条家が鎌倉幕府を乗っ取ったんですけどねwwwwww。

なんで苗字が違うの?

今の時代だと夫婦は同じ苗字であるのが普通ですよね?それ故になんで源政子ではなく北条政子なのと思う人もいるかもしれません。いい質問ですね。実は鎌倉時代は夫婦別姓でも構わなかったんです。夫婦別姓にしたいと思う人ならば羨ましいと思いますね。

また、余談にはなってしまいますが武家ならば女性であっても相続権もあったそうですね。それだから頼朝がいなくなってから北条が仕切る方向性があったのかもしれませんね。要は鎌倉時代は男性のみで仕切るとは限らなかった時代と思えばいいです。それだから、鎌倉時代は源氏が消えてからは北条が仕切ってたのかもしれませんね。

 

まとめ

私自身、政子の気持ちはわからなくもないです。やはり、自分の好きな人が他の誰かと何かあるなんて考えたくもないですしね。私がもしあの時代にいたら側室作るなって言いますよ。あと補足なんですが政子には他の女の人と関係を持つと正室としてのステータスが落ちるとも考えています。それ故に過激になってしまった部分はあります。このように、恋愛面では色々あった人ではあります。ですが、この2人が結ばれたかったら鎌倉幕府はなかったと言っても過言ではないとは思います。そう考えると2人が結ばれたのは運命なのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう