源氏界隈のイケメン!木曾義仲とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!3週間連続ふざけたコラムでしたが今回は普段通りにコラムを書きますね!にしても、鎌倉殿コラムはついついふざけちゃいますねwwww。三谷幸喜の作品は面白くて最高です!まあ、そんなことはさておき今回は誰のことを書くかと言うとあのイケメン武将の木曾義仲です。私的には彼の名前は印象に残るのですぐに覚えましたね。それで、なんで彼のことをを書くのか?それは彼は源平合戦のメイン人物であり目立つのにもかかわらず、儚い人生で終わってしまうからです。義経並みに短命ではあります。ということで、早速ながら色々話したいと思います!

木曾義仲のプロフィール

安定ですが木曾義仲のプロフィールを見ていきましょう!

名前 木曾義仲

源義仲と言われることもあります。

生年月日 1154年

出身地 武蔵国

今でいう埼玉県比企郡嵐山町です

幼名 駒王丸

没年 1184年3月4日(享年31歳)

備考

木曽に匿われたものの、突然大活躍した武将です。平家を京から制覇しながらも法皇に背かれてしまったことから最後は源氏に討たれまいました。

木曾義仲の人生

以上が木曾義仲のプロフィールです。では、彼はどんな人生を歩んだのか?

1.波瀾万丈な人生

木曾義仲は1154年に今でいう埼玉県こと武蔵国で生まれました。ですが、1155年に父の源義賢が一族の争いに巻き込まれ源義平や源義朝に殺されてしまいます。木曾義仲はその当時2歳だったそうです。え?源義仲って頼朝のお父さんではと思いましたね?そうです。だから、源平合戦で平家を倒した仲ですが実は因縁関係なんです。それで、木曾義仲も狙われるところでした。まだ2歳なのにまさかの展開ですね。ですが源義平の配下の畠山重能や斎藤実盛によって助けられました。運が良かったですね。

2.信濃国で平和な生活を送る

木曾義仲は助かった後に信濃国に匿われました。その時は平穏な青年期だったそうです。きっと2歳でお父さんがいなくなったという事実を知らないから平穏に過ごせたのかと思われます。それもあって、源義朝やその息子である頼朝や義経などに対して復讐心に燃えるということもなかったそうです。むしろ、山の中で元気に成長したそうです。もし、記憶があるうちに親が殺されていたらそういうわけにはいかないですね。

3.義仲、挙兵する

1180年に以仁王という人物が平家を倒すために令旨を出しました。以仁王の令旨ですね。それで、木曾義仲はその令旨を了承し挙兵しました。1180年9月に信濃国に起こった市原合戦という平家との戦いだと言われています。結果は勝敗がつかなかったそうです。そして、市原合戦の後に木曽義仲は関東や甲斐の源氏と衝突を避けるために北陸地方で勢力を拡大してゆきます。北陸地方は源氏の勢力が薄かったからだそうです。そのけっか、北陸地方の平家に不満を持つ人々を次々と味方とし木曾義仲は連勝しました。

4.倶利伽羅峠の戦いでの活躍

1183年に木曾義仲軍は北陸を手中に治めかけていました。ですが、越中と加賀の国境にある倶利伽羅峠には平維盛の大軍が待ち構えていました。ちなみに倶利伽羅峠は谷が深く山は高く険しいそうです。また、道が細い難所だったそうです。そこで、木曾義仲は倶利伽羅峠の地形を巧みに利用します。やり方としては平家軍の注意を前方に引き付けてから残りの兵力を分散させます。そして周囲から夜襲をしかけました。もちろん、平家はボロボロです。この結果、木曾義仲の味方は増えました!

その後も木曽義仲は平家軍を破り1183年7月には京都の平安京入りを果たします。一方で平家は軍事力を失ったことで都落ちし西国で体制を立て直そうとしました。

5.後白河法皇と対立

義仲は以仁王の皇子である北陸宮こそ次期天皇に相応しいと主張しました。武士が皇位継承に介入するのは異例なことです。それはそうですよね。それ故に後白河法皇がブチ切れました。それもあって、木曾義仲は最後のあがきとして平家追討をすることにしました。ですが、苦戦していました。そんな中、頼朝が義経に大軍を率いさせて京都に向かわせたという情報が流れました。それは木曾義仲にとってはピンチです。なぜなら、後白河法皇は頼朝と結託して義仲を京都から追い出そうとしていたからです。

6.木曾義仲の最期

もちろん、木曾義仲には味方という味方はいません。そこで、自らの本拠地である北陸へ逃げ込もうとしました。ですが、木曽義仲はわずかな兵力で源範頼と義経軍を迎え撃つ事を決断しました。無茶振りですけどね。この戦いは宇治川の戦いと言います。1184年1月の話です。彼は自害しようとしましたが顔面を敵兵の矢で打たれ戦死してしまいます。自害の方がマシという文化のある時代だったからこそ無念だったと思います。

木曾義仲の人物像

以上が木曾義仲の人生です。儚い終わり方でしたがどんな性格だったのか?

なんか、短気ではあったものの実直で豪快な人物として描かれることが多いです。武士らしいですね。たしかに、言葉や態度は悪かったそうですがその実直さや豪快さ故にどこか人を惹きつける魅力があったそうです。そう考えると木曾義仲は京よりも北陸地方が似合うなと思います。

そして、木曽義仲の下には義仲四天王と呼ばれる忠臣がいました。メンバーは今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠です。この4人は敵軍からも優秀な人物としてマークされるほどの強者だったそうです。ちなみに、今井兼平は宇治川の戦いの時に木曽義仲が安らかに自害できるようにするために単騎で敵陣に特攻してその時間を稼いだそうです。圧倒的に不利な戦況の中でそんなことができるのは相当強い証拠だと思います。自害にはなりませんでしたがそんな味方がいる木曾義仲が羨ましいです。

なんで木曾義仲なのか

先ほども述べたように木曾義仲は源義賢の子です。でも、なんで源義仲よりも木曾義仲と呼ばれることが多いのと思いますよね?それは父を殺され命からがら信濃国へ逃げ落ち信濃の木曽山で育ったから木曾義仲と言われています。良くも悪くもただそれだけです。

イケメンだったの?

タイトルにイケメンと書かれていますがイケメンだったそうです。源氏界隈だと義経と木曾義仲がイケメンと言われていますね。眉目秀麗な顔だったそうです(肖像画ではそんな感じがしないのは私だけでしょうか?)。ただ、源平衰退記には義経は美男であるが田舎者で粗暴な振る舞いが目立つと書かれています。田舎者であるのは事実ですけどね。ただ、私的には武士ですしか弱い感じよりも粗暴である方がいいと思っています。武士なんだから強い方がカッコ良く思えます←。

※木曾義仲は人望もあるので粗暴であっても許せますけどねwwwwww。

まとめ

個人的に思うこととしては最期は義経と似てるようで似てないような気がします。イケメン同士だから2人を軽く比べますが。似てる点は両方とも初めは勢いあったのに段々と味方が減る点ですね。減っていった経緯は違かったとしても最終的にはなぜか弱まっていったのは事実です。そして、似てる点はリーダーとしては向いていないのかなと。たしかに、2人ともプレイヤーとしては好成績を出していました。ですが、いざ誰かを統治する力はないような気がします。だから、儚いのかなと思います。要するに、イケメンかつしごでき武将の2人は欠点はあるんだなということです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう