徳川のラスト将軍!徳川慶喜とはどんな人か?

どうも、りかちゅうです!皆さん、江戸幕府の15代将軍は徳川慶喜(けいきじゃないよよしのぶだよ)はご存知かと思われます。やはり、ラスト将軍だけあって何かと有名になりますしね。この方なんですが実は将軍の任期としては短いんですよね。ぶっちゃけた話1年もないです。マジかよって。マジなんですよね。すぐに秀忠に将軍職を譲った家康よりも短いです。ですが、この方は短期間であったとしても色々な仕事をしました。具体的には徳川幕府の締め作業とかですね。また、キャラも濃いんです。ということでこの記事では徳川慶喜とはどんな人かについて話したいと思います!

徳川慶喜のプロフィール

徳川慶喜という名前は知っていたとしてもそれ以外の情報を知らない人もいるかと思われますので毎回恒例でもある徳川慶喜のプロフィールを作りました!

名前 徳川慶喜

生年月日 1837年10月28日

幼名 松平七郎麻呂(しちろうまろ)

出身地 水戸藩←現在の茨城県

没年 1913年11月22日

(77歳と最も長生きした将軍です。ちなみに死因は肺炎です。)

将軍の任期 1867年1月10日~1868年1月3日

(ほら!短いでしょ??ちなみに任期中に江戸城に入城しなかったらしいです。)

徳川慶喜の仕事内容

以上が彼のプロフィールです。まさか、大正時代まで生きていたことに驚いた人はいるかと思われます。そりゃ、大政奉還以降の情報は有名ではないですからね?そんな徳川慶喜。将軍時代にどのような仕事をしたのか?今から話したいと思います!

1.将軍継嗣問題

徳川慶喜は徳川斉昭の7男として生まれましたが非常に賢かったそうです。それもあって長男でもないのに慶喜を将軍に!と考える人が多かったそうです。理由としては13代将軍徳川家定は病弱で後継ぎを作れる見込みがなかったからです。これはもう後継者争いは確定です!

争い内容としては一橋家の養子となった徳川慶喜を推す一橋派と、紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派です。ぶっちゃけた話始めの方は一橋派が優勢でした。ですが、南紀派の井伊直弼が大老(江戸幕府の最高職)に就任したことで南紀派が勝利し、14代将軍派慶福こと家茂となりました。

2.大政奉還

これは王道ですね。14代将軍家茂が亡くなったことで、1866年12月5日に徳川慶喜は15代将軍になりました。まあ、将軍になったものの色々ごだってました。何故なら薩摩藩・長州藩を中心に討幕の動きが強まっていたからです。それ故に薩長両藩と岩倉具視が手を組み、明治天皇に幕府を倒せという命令を出させたらしいです。ですが、倒幕するのに反対する人もいました。そのうちの1人が坂本龍馬です。彼は前土佐藩種の山内容堂を頼り1867年に大政奉還をさせました。

えっ?これって倒幕とどう違うのって?大政奉還とは一時的に政権を朝廷に返しただけで江戸幕府は滅亡したわけではないです。それもあって、徳川家の権力は揺るがないものであったそうです。まあ、理由は当時の朝廷には政治を執れる能力はなったからその方が良いんですけどね。

3.王政復古の大号令

これは大政奉還並みに王道です。討幕派にのっては倒したい幕府がないない状態です。そこで、1867年12月9日、王政復古の大号令が出されました。内容としては幕府・摂政・関白などの制度を廃止し、新しい政府をつくることです。これで、約260年続いた江戸幕府は事実上滅亡してしまいました。

4.戊辰戦争

幕府の滅亡という挑発に乗ってしまったことで、1868年戊辰戦争が始まってしまいました。結果としては徳川側の負けに終わってしまいました。負けた要因としては鳥羽・伏見の戦いで負けたとしてもなんとかなる見込みはあったのに江戸に退却したからですかね?そのようにした理由は朝敵の汚名を恐れていたからかと思われます。ですが、この行動は反対に評価を下げる一因になってしまいました。

江戸幕府終了後の徳川慶喜

1年も経たないで将軍職は終わってしまいましたがそれ以降も徳川慶喜は長生きしていました。では、一体彼はその後、どんなことをしながら生きていたのか?

1.静岡にお引越し

まず、駿河に引っ越しました。今でいう静岡ですね。ぶっちゃけた話をすると静岡県と徳川家は関係があります。浜松城がまさにそうですね。それで、静岡で何してたのって?実は趣味に没頭していました。しかも、彼は多趣味なんです。写真・油絵・手芸・釣り・狩猟・囲碁・自転車など。ここまで趣味が多いとは好奇心旺盛ですね。特に写真は撮るのも映るのも大好きで、雑誌にも投稿していたそうです。なんか趣味で生きるのも良いですね。

2.東京リターンズ!

ただ、趣味で生きる生活はずっとではありませんでした。なんと、1897年に静岡から東京・巣鴨へと移住することになりました。巣鴨は私の出身大学から近いですね。ちなみに東洋大学です←。そんなことはさて置き、徳川慶喜は東京に戻ってから何をしたかというと有栖川宮威仁(たけひと)親王の力を借りて明治天皇にお目にかかったそうです。また、1901年には巣鴨から小石川のお屋敷へ引っ越しました。その後、1902年に貴族院議員に就任し、徳川慶喜家という家を興すことになりました。ちなみに1910年まで貴族院議員でした。

徳川慶喜の性格

大政奉還後の生活を見ら限りだと徳川慶喜は多趣味なのかなと伺うことができますね。なただ、徳川慶喜の性格は多趣味だけではありません!ですので、多趣味以外の性格についても話したいと思います!

1.女好き!

実は徳川慶喜って女好きなんですよ!江戸時代の豊臣秀吉って言っときましょうかね?なんか徳川慶喜はイケメンだったのもあり正室だった一条美賀子に一途な感じではなく多くの側室ともよばれる側用人がいたそうです。これは江戸時代だから許される話ですwwwwwww。というか、正室の一条美賀子と慶喜はあまり仲が良くなかったそうです。また、2人の間に生まれた子どもも早くに亡くなったらしいです。ですが、徳川慶喜は、側室の1人でもあった中村幸とは10人、新村信とは11人の子ども作ったそうです。合計21人です。どんだけ元気なんだよって思いますねwwwww。ちなみに江戸幕府将軍の中でも第3位です!

2.寝ることに命懸け!

ふぁ?って思いますよね?なんか、彼は幼い頃から寝相が悪いという欠点があったそうです。これの何がいけないんだっけ?実は徳川慶喜のお父さんでもある徳川斉昭は礼儀作法を重んじる人でして、この寝相の悪さのままでは将軍にならないという考えがあったらしいです。そこで、徳川斉昭は徳川慶喜の枕の両側にカミソリを置くという形で寝相を改善しようとしたそうです。これによって寝相は改善されたそうですが、成人してからもこの習慣は続けていたらしいです。幼少期の出来事って大人になっても残るのはこういうことですね。

3.豚肉大好き人間!

徳川慶喜は豚肉が大好きだそうです。特に今でいう鹿児島の薩摩産の豚肉が好物だったそうです。それもあって周りからは「豚肉がお好きな一橋様(徳川慶喜の昔の苗字)」という意味を込めて「豚一様」と呼ばれていました。てか、なんでそんなことが注目されるのかって?実は当時の日本人には獣肉を食べる風習がなかったんです。それもあって周りの人は驚いていました。それなのに徳川慶喜は周りの反応を気にせず堂々と食べていました。ちなみに横浜が開港されると、いち早く肉を取り寄せいたらしいです。周りの目を気にせずに好きなことをするってすごい行動力がありますね。

まとめ

今回この記事を書いて思ったこととしては業務内容よりもキャラの濃さにビビりました。とりあえず、そんなに女好きなんかいってねwwwww。あとはどんだけ豚肉ヲタクなんだよってねwwwwwww。そのせいで何をしたのかなんて吹っ飛んでしまいました。まあ、それくらいキャラの濃い人ってイメージしかないということですね。なんか、教科書にはそういうのが書かれないからこそ調べていて面白かったです。それもあってこの記事書いてて徳川慶喜に興味を持つようになりました。ですので、また機会があったら徳川慶喜コラムを書こうかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう