天才武将!源義経とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!源義経という人物を知っている人は沢山いると思います。源平合戦で一番と言っていいほど活躍していた人物ですしね。それもあってTVでも話題になりやすい存在です。ただ、それと同時に彼は頼朝と対立した影響で短命で終わってしまいました。それもあって天才でありかつ悲劇の武将とも言われています。たしかに、実績もあるし見栄えもイケメンと言われている人が短命で終わったらそう言われますよね。ただ、義経はそんないい一面だけじゃないです。むしろ、悪い一面もあったから結末は悲劇となってしまいました。ですので、この記事にて義経の人生や性格などを話したいと思います!

源義経のプロフィール

とりあえず、ワンパターンですが義経のプロフィールから見ていきましょう!歴史コラムもパターンを変えたいですが変えずにここまで来ちゃってます…。

名前 源義経

生年月日 1159年

出身地 京都

幼名 牛若丸

没年 1189年6月15日←享年31歳

備考

誰もが思う天才武将です。なんか、イケメンだったとも言われています。ただ、性格に癖があったので最終的には制裁されました。性格に関しては後ほど話したいと思います。

源義経の人生

プロフィールはこんな感じです。では、義経はどのような人生を歩んだのか?

1.父を失った幼少期

保元の乱から少し経過した1159年に源義朝の息子こと義経が生まれました。もちろん、お兄さんは頼朝です。ただ1159年の平治の乱にめ源義朝は敗北して戦死しました。となると、義経からしたら1歳にならないうちにお父さんを失ったことになります。それで、義経はお母さんが助命活動をしたことでなんとか死なないで済みました。そして、その後義経は鞍馬寺に預けられ将来的に出家すべく平穏な日々を過ごしたそうです。でも、後から源氏の子供だということを知ったことから1174年に義経は鞍馬寺で出家をすることを拒絶し、奥州藤原氏三代目の藤原秀衡のところに行きます。

2.弁慶との出会い

父の仇である平家打倒を目指すことを決意した義経。そんな時に超ガタイの良いヤンキーみたいなヤツが喧嘩を売ってきます。その名はあの武蔵坊弁慶です。その際に義経は脛を叩きました。弁慶は痛い思いをしました。弁慶の打ちどころという言葉はこのくだりから来てます。それだ、弁慶は義経が源氏の御曹司であることを知り、最後の最後まで義経はの側近中の側近として大活躍します。

3.藤原秀衡との出会い

藤原秀衡は義経を快く迎えました。藤原秀衡は非常に頭が切れて決断力もあるかなり有能な奥州の統治者でした。それ故に義経は政治の道具として使えそうとは思っていたそうです。ただ、1180年に源氏側も色々動いていることを義経は奥州にいたくないと思い始めました。そこで、兄の頼朝のところに行くことにしました。

4.源平合戦で大活躍

源平合戦の主役は義経と言っても過言ではないです。一ノ谷の合戦では崖から降りて攻撃と無茶振りをして平家を倒したり屋島の戦いでは水軍がないのに背後から攻撃して平家を動揺させたりしました。そして、最後の戦いかと壇ノ浦の戦いでは海を熟知してる平家が有利なのな敵の水夫を狙って敵船を操縦不能にさせるなどをして勝ちました。経験ないのにここまでやれるのは天才です。

5.頼朝との対立

源平合戦以降は頼朝と対立することになります。原因は価値観の不一致や義経が調子に乗りすぎたことです。そこで、本格的に戦うことになります。正直なことを言うと頼朝についていく人が多いため義経は不利です。義経は、西国から各地を転々とし最終的には1187年2月に故郷の奥州に身を委ねます。もちろん藤原秀衡は義経を匿いました。ですが、1187年10月に藤原秀衡が亡くなり藤原泰衡が跡を継ぐと流れは変わります。

6.義経、敗れる

頼朝に脅されたことから藤原泰衡は義経邸を襲撃しました。もちらん、義経を守ろうと弁慶は敵を次々と討ちます。ですが、義経側の兵力はなく矢を受け刃に切られた弁慶は死にました。このシーンはみんな分かるはずです。そして、義経は自害しました。ここら辺の話は長くなるのでまたいつか詳しく話します。

源義経の性格

以上が義経の人生です。やはり、色々活躍していたものの反感を買い短命と終わりましたね。それで、反感を買ってしまった原因は性格に癖があったからです。では、具体的にどんな性格だったのか?

1.頼朝をバカにしていた

なんと、義経にとっての頼朝をバカにしていたなんて話があるんです。とりあえず健気な感情はなかったそうです。平家物語にはこんな発言があります。

命がけで平家を倒したのだから、関東は当然ながら私のものだ。西国ももらえると思っていた

流石に当然までは言い過ぎとは思いますが。また、なぜか頼朝に報連相をしなかったそうです。コミュニケーションもろくに取らないでよくやっていけたなと思いますが…。

そして、何よりもヤバいなと思うのは頼朝に許可も得ないで当時の最高権威だった後白河法皇から官位を貰ったことです。しかも後白河法皇は頼朝のライバルです。こんなことをすれば頼朝は激怒するのは当たり前です。それなのに、無断で官位をもらったのはバカにしてると言っても過言ではないです。

2.武功はあっても政治力がない

義経と頼朝は平家が滅んでからバトルをするようになりました。なぜなら、考えが違かったからです。義経は朝廷という存在がありながら重職を自分の身内で独占しようと考えていました。一方で頼朝は武家政権といって武士の、武士のための政権を作ろうとしてました。それ故に対立はしました。あと義経的には頼朝よりも偉くなりたいと思ったんでしょう。

それで、対立の状況としては後白河法皇から頼朝を倒せと命令をもらった義経についてくる人はそういませんでした。しかし、そんな義経についてくる人は誰もいませんでした。なぜなら、義経についても利益がないと考えた人が多々いたからです。一方で朝廷から義経を倒せと言われた頼朝にはたくさんの武士たちがついていきます。なぜなら、武士の棟梁として支配していた頼朝についていけば褒をもらえると考えた人が多々いたからです。この2人の対比を見ても義経は戦は上手であるものの政治は全くできない人なのかと思われます。

3.藤原泰衡に見捨てられる存在

先ほども述べたように頼朝から追跡された義経は奥州の藤原秀衡のもとへ逃げます。藤原秀衡は義経のことを高く評価していました。それ故に藤原秀衡は、息子の藤原泰衡に対して、こんな遺言を残しています。

源義経を大将軍に任命して、源頼朝と戦え

それなのに、藤原秀衡が亡くなったら藤原泰衡はあっさりと義経を殺害しています。なんか、頼朝に脅された藤原泰衡は義経の首を頼朝に差し出したそうです。脅されてるとは言えあっさり過ぎます。きっと内心嫌だったのかと思われます。

義経に関する個人的な感想

最終的に義経は頼朝と対立して若くして死にました。それもあって天才だけど悲劇の武将と言われがちです。ただ、私的には調子乗りすぎたからこんな結末になったのかなと思われます。なんて言えばいいんですかね?たとえ功績があっても性格に癖があったから短命になったと思います。私的には頼朝のことをバカにしすぎるのはどうなのかなと…。あとこのまま生かして置いたらどんどん調子に乗っていたと思います。実際に最近の諸説では義経は調子に乗りすぎていたから制裁されたとも言われています。それ故に短命で良かったのかなと思われます。いや、短命だから天才で悲劇の武将と呼ばれていると思います。

まとめ

この記事を書いてて思ったこととしてはもし義経が殺されていたらどうなっていたのかと。きっと平家側が有利になっていたのかなと。結局清盛が義経を生かしたのは頼朝も生かしたかららしいです。その代わりお母さんは清盛の妻となりました。なかなかの話ですが昔ならあり得ます。ただ、私的には清盛は爪が甘いとは思います。もし殺してたらここまでコテンパになってないはずです。そう考えると義経が子供のうちに死ななかったことで運命が変わったのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう