日本一の兵!真田幸村とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!私が1番好きな歴史上人物は誰でしょう?ヒントは大阪の陣のアイドルで日本一(ひのもといち)の兵と言われています。答えは真田幸村です。きっかけは天地人を見た時です。巧みな戦略で勝っていく姿がかっこいいと思い信長から幸村さんに推し変しました。ただその幸村さんなんですが大活躍したのは幸村さんにとって人生の最期の戦こと大阪の陣のみなんです。何したんだよって?簡単に言えば家康が自害したくらいに追いやったそうです。この活躍があったから今でも有名なんです。この話を聞くだけでも何者と思いますよね?ですので、この記事にて幸村さんことを話したいと思います!

※当たり前ですがどうする家康ではなく真田丸を思いながらこの記事を書きますね!

真田幸村(信繁)のプロフィール

幸村さんは日本一の兵として知られていますが基本情報を知らない人もいるかと思われます。ですので、まずはプロフィールから見ていきましょう!

名前 真田幸村(本名は真田信繁です。)

出身地 信濃国小県郡(今で言う長野県上田市の辺りです)

生年月日 1567年

没年 1615年6月3日

備考

誰もが分かる日本一の兵です。なぜなら、大阪冬の陣では真田丸で家康軍をコテンパにしたり夏の陣では家康の本陣に凸ったりしたからです。もうこれは大阪の陣のアイドルと言ってもいいですね(豊臣方でも活躍した武将はいますがそれでも幸村さんがMVPでいいと言われてるくらいです)。ただ、それまでは功績はあったものの特別目立ったわけではなかったんです。

真田幸村の人生

以上が幸村さんのプロフィールです。では、彼はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

幸村さんは1567年に信濃の上田城主である真田昌幸の次男として生まれました。もちろん次男のため後継ぎという扱いにはなりません。ですが、真田家の主君である武田家が不安定な状況だったので幸村さんは色々巻き込まれます。まず武田家の時、幸村さんは木曾義昌の子と共ぬ新府城に預けられていましたですが木曽義昌が裏切って織田家に寝返ったために処刑されました。ですが、1582年に武田勝頼は真田昌幸のこれまでの功績に報いるため幸村さんを返還しています。また、真田家は武田家の滅亡とほぼ同時に岩櫃城に入りました。それからは信長の傘下になるんですけどね。

2.木曽義昌の人質となる

また人質生活を送ることになりますす。理由は1582年に6月に本能寺の変で信長が討たれたからです。真田家の主君は織田家で滝川一益の配下にありました。それで、滝川一益は上野国を脱出し木曾郡を通過するための手段を依田信蕃と真田昌幸に相談しています。その際に佐久郡、小県郡の国衆の人質を差し出すことで木曾郡を通過するという提案をしました。その時に人質として選ばれたのが幸村さんです。この作戦は見事成功し木曾義昌は信濃国への侵攻のために滝川一益から人質を受け取り通過することを許可しています。とは言っても人質期間は短いんですけどね。

3.徳川との対立

武田家が滅亡してから上杉家、北条家、徳川家の三者で武田遺領を巡る争いが発生しました。それを天正壬午の乱と言います。信濃国もターゲットです。そのため、大変ではありました。ですが、木曽義昌が徳川氏に従属することを決意しました。ただ、その代わりに佐久郡と小県郡の人質を解放することになりました。また、真田昌幸も徳川家に従属することになったからこそ、幸村さんは無事に帰還することができました。ですが、それで終わりではありません。なんと家康から領地である沼田を北条に渡すよう命令されます。理由は家康は戦国の北条家と血縁関係を結んだからです。とは言えども、真田昌幸はこの要望を受け入れません。そこで徳川と手を切り戦いました。それが第一次上田合戦です。結果は真田家の勝利です。小さな勢力でコテンパにするのが真田ですね。

4.上杉の人質

ただ、このままだと誰かに狙われてもおかしくないです。真田家は強くても勢力が小さいのが欠点なんですよね。そこで、上杉家に頼りました。ですが上杉は快くOKはしません。実は真田昌幸は一回は上杉に従ったのに裏切ったからです。そこは話が長くなるので割愛しますが真田昌幸は武田が滅亡してから転々としてたんですよね。武田しか勝たんって感じだったんですよね。だからって上杉家からしたら簡単に許せるものではないです。そこで、幸村さんが人質として上杉家に送られることになりました。とは言っても上杉景勝も直江兼続も幸村さんのことを悪いようにしませんでした。むしろ、いいようにしてくれました。人質というよりかは上杉家の一員みたいな感じですね。

5.秀吉の家臣になる

上杉景勝は関白に就任した秀吉にいち早く上洛しました。その時に幸村さんも同行しています。同行できる時点で相当いいようにしてもらえてたんでしょうね。その際に幸村さんは秀吉に引き抜かれました。なぜなら秀吉は幸村さんの器量を認め人質としてではなく豊臣の家臣にしたかったからです。そのため、上杉家から豊臣家の人間になります。その際に都伏見城の普請役に任じられ人足賦課が380人割り当てられています。100石につき2人の割合という計算でいくと、幸村の知行はおよそ2万石となります。さらに、幸村さんは従五位下左衛門佐の任官を受けており豊臣姓を名乗ることも許されました。そのご縁によって秀吉の重臣である大谷吉継の娘も正室に迎えています。

6.上田合戦と九度山の流罪生活

秀吉がいなくなってからは幸村さんは家に戻って真田昌幸と共に西軍につきます。その際に第二次上田合戦が起こります。これも真田が圧勝です。徳川秀忠率いる30000人の大軍を、昌幸・幸村父子はわずか3000人ほどの兵で迎え撃ったそうです。その影響で秀忠は本戦には間に合わず遅刻をしてしまったのです。

ですが、西軍は負けてしまいました。本来ならば処刑です。ですが、真田信之は本多忠勝などの動きによって九度山へ追放されることとなりました。山に追放されたということは浪人扱いです。となると、活躍することは当然許されません。ですので、畑仕事などをするのみでまさにニート生活を強いられていたようです。しかも信之からの仕送りでも足りないなどしがない生活だったそうです。

7.大阪の陣と真田丸

1614年幸村さんが48歳の時に大阪冬の陣が勃発します。その際に豊臣方は浪人に声掛けをしました。もちろん幸村さんも呼ばれています。これは幸村さんにとってチャンスです!幸村さんは周りにバレないように脱出し大阪城へ入るのです。

その際に幸村さんが作ったのが真田丸です。幸村さんは本当は夜戦が良いと言ったものの反対されたため仕方なく籠城となりました。そこで、幸村さんが目をつけたのは南側です。大阪城は淀川や大和川だけでなく多くの砦に囲まれているため大変堅固な城でした。ですが南側は防御力が低いため南側から攻め込まれるのではと考えていました。そこで幸村さんが大阪城の南側に真田丸という出城を築城しました。真田丸には数千人しかいませんでした。ですが徳川兵は1万以上の被害を被りました。これを見ても幸村さんの強大さがわかりますね。

 

8.大阪夏の陣で最期を迎える

夏の陣なんてもう徳川が勝つようなものです。勢力と権威では徳川が勝ってますからね。あと豊臣側は統率力がないですからね?ですが、幸村さんはそれでも暴れます。まず伊達政宗との戦いの時に幸村さんは軽く蹴散らしました。また、それに退く伊達勢にむかって「関東の兵に男はおらんのかーい!」と言ったそうです。これを見た伊達政宗は理由をつけて真田隊との戦闘を嫌がりました。伊達政宗までそんなこと言うなんて相当です。

ただ、次第に豊臣が弱くなり敗色濃厚となってしまいました。もうここまで来たらやることは1つです。幸村さんは毛利勝永と連携して徳川本陣凸ります。その際に色んな敵を蹴散らせて本陣に突っ込んだそうです。そのため、家康はおじいちゃんなのにダッシュで逃げます。幸村さんは11kmにわたってしつこく追いかけたそうです。ですが、幸村さんは燃え尽きたところで討死にしました。

英雄扱いされる幸村さん

確かに幸村さんは負けました。ですが、こんなにインパクトを与えたので英雄扱いされました。実は敵方の伊達政宗も幸村さんの関係者をしれっと助けましたからね。それくらいの人なんです。また、大阪の陣の幸村さんの姿をみた初代薩摩藩主こと島津忠恒は「真田日本一の兵。いにしえよりの物語にもこれなき由。」と言ったそうです。意味はあんなの見たことないです。勝てば官軍が常識なのに幸村さんの場合は負けても官軍ですね。

真田幸村にまつわるエピソード

幸村さんは戦国時代のアイドルです。ぞんな彼だからこそ有名なエピソードはあります。ですので、その話もしますね。

1.本名は真田信繁

幸村さんは幸村さんではないんです!本名は真田信繁です。幸村と名乗ったのは大坂城に入った以降だと言われています。由来は「幸」は真田家が代々受け継いできたものだから「幸」という文字は絶対に入れようみたいになったそうですね。また、「村」は真田丸ではくじ引きで選んだ文字ではあるもののそこに関しては諸説あります。ただ、名前に関しては正確なことは分かりません。なぜなら、幸村という文字は江戸時代に入って書かれた軍記物こと「難波戦記」で初めて登場する名前だからです。ですが、真田幸村としての名前が人気になったため真田幸村という名前は安定しました。この私も真田丸を見てから本名は真田信繁だということを知りましたね。

2.伝説の六文銭

幸村さんといえば六文銭です。六文銭とは仏教の伝えです。どうやら死者の三途の渡し賃が六文だそうです。となると、幸村さんはいつでも命を捨てる覚悟で戦に臨んでいたということになります。しかも、戦の場であえて六文銭を用いることということは自分にも敵にもその覚悟を見せつけたかったのかなと思います。それだけ幸村さんは戦では必死だったんですね。

また、六文銭の色は赤と特徴的です。それ故に真田の赤備えとも言われています。ではなぜ赤なのか?まず強い集団だからです。赤備えとは力のある武将ができるものでした。黒などの地味な甲冑しかない中赤は注目の的となるからです。となると、目立つのに弱かったらすぐやられますよね?それ故に赤という色は強くないと使えないんです。また、六文銭を赤にしていた理由は他にもあります。それは赤備えの元祖は武田だからです。真田は元は武田の家臣でした。それ故にたとえ武田が滅んだとしても武田への愛を示すために赤にしていたのかなと思われます。

幸村さんの性格

最期は家康の本陣に凸ると大胆な行動をした幸村さん。一見破天荒そうに思うかもしれません。ですが、それ以外の一面もあります。ですので、性格面の話もしますね。

1.温和で明るい性格

幸村さんのお兄さんこと信之は幸村さんのことをこのように評価しています。

物事に対する態度はものやわらかで忍耐強い。言葉数は少なく、怒ったり腹を立てたりすることはない

このような性格は幸村さんがずっと人質生活をしていたからなのかなと思われます。幸村さんは次男だから後継というポジションではなかったものの上杉家と豊臣家の2つの家(正式には4回ですが)で人質生活を経験したからこそ他人の家でどう振る舞えば好かれるかは現場で学習できたと思われます。それもあって、どちらの君主にも大変気に入られ厚遇されていました。これはもう人質扱いではないですね。また、好かれるということは温和で明るい性格の持ち主だったのかなと思われます。

2.身分関係なく接する

幸村さんは昌幸とともに関ケ原の戦いで西軍についたため九度山へ流され厳しい生活をします。その際に幸村はさんは地域の村人や猟師、地侍とも分け隔てなく交流したそうです。偉そうな態度を取る浪人もいるからこそ分け隔てなく関わる幸村さんをよく思うでしょうね?そのため、大阪の陣へ参戦する際に共にしたほとんどの従者が正式な家臣ではないです。なんと九度山の生活で出会った人々だったそうです。死ぬかもしれない戦に参加したいと思わせる幸村さんってすごく人望があるんですね。

3.義理堅い性格

幸村さんは秀吉からのご恩があるからたとえ大阪の陣で家康がいい待遇にしてやるから乗り換えろと言われても乗り換えませんでした。家康につけば有利になるのに断るなんて義理堅いですね。秀吉がいたから出世できたという気持ちがあったから断ったんでしょうね。これを見ても人の恩を大切にする人なんだなと思います。このような性格だから九度山の人たちにも愛されたんでしょうね(これはその当時に限った話ではないです。現在九度山に住んでいる人も幸村さんのことが好きらしいです)。

まとめ

記事を書いててもっと幸村さんのことが好きになりましたね。どこら辺かというと性格ですね。私は真田家の戦法が好きで幸村さんのことを好きになりました。小規模なのに大規模な徳川をコテンパにするなんて何者なのと。あと忍者みたいな感じも魅力だなと思っていました。

ですが、幸村さんの魅力はそれだけではないです。こんなに功績がえるのに義理堅く偉そうでない性格も大事なのかなと。大阪の陣で九度山の仲間達が集結したという話を知って余計にそう思いましたね。あと記事には書いてないんですが幸村さんは大阪夏の陣で自分はいなくなることを覚悟してたから奥さんや嫡男以外の子供を敵方の伊達政宗に保護依頼をしたそうです。伊達政宗は了承しただけでなく残りの人達は伊達の人間として生かすようにしてくれました。敵までもが認めるって人望がないとできないことだなと思います。それ故にこの記事を書いてて改めて幸村さんを好きになれました。ですので、幸村さんの魅力は他の人にも知ってもらいたいと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう