大坂冬の陣の名物!真田丸とは何か?

どうも、りかちゅうです!2016年の大河ドラマの名前はなんでしょう?答えは真田丸です!あれの元ネタって大陣の出城なんです。堺雅人がその名は真田丸と言っていましたね!それからのイントロにはびっくりしちゃいました。にしてもなんで真田丸が必要なんだよと思いますよね?それは大阪城の欠点を補填するためです。大阪城は南側が弱かったんです。そこで、幸村さんは真田丸を作って大阪城を守りました。それで、その真田丸なんですがなかなかものもなんです。一言で言えば最強です。それ以外何物でもないです。でもそれじゃあ分からないって?そうですよね。ですので、この記事にて話したいと思います!

真田丸ってなんなの?

ここでは詳しくは話しませんがまずは真田丸がどのようなものなのかについてを話しますね!

真田丸とは大阪の陣の時に作られた出城です。後ほど話しますが冬の陣で豊臣方の軍勢が野戦がいいと言ったのに茶々や大野治長などの上の人間が反対しました。大阪城は強い城だという自信があったんでしょうね。実際大阪城は強いのは事実なんですけどね。そのため、籠城で戦うしかなかったんです。ただ、大阪城には南側の防御は弱めでした。そこで、幸村さんは南側に真田丸という出城を作りました。模型図としてはこんな感じです!拾い画ですが失礼します。

真田丸を作るようになった経緯

真田丸を作ったのには理由があるんです!ないのに作るわけがないじゃないですか!というか理由は先ほど話しましたね。ただ、それだと詳しく話せてないので経緯を話しますね!

1.大阪の陣フラグ

関ヶ原が終わってからは豊臣と徳川の両方でやっていこうみたいな感じではありました。そんなのいずれ無理が来ますけどね。その無理が来たきっかけが1614年8月の「方広寺鐘銘事件」です。詳細としては方広寺の大仏殿の再建をすることになりました。再建しただけなのにって感じですがその再建が問題だったんです。なんと方広寺の梵鐘に彫られた銘文の「国家安康」と「君臣豊楽」で対立しました。なんで豊臣の文字は繋がってるのに家康の文字を離しているのは見下しかって感じですね。これって家康の主観的意見なのかと思いますよね?違うんです。林羅山もこれは豊臣が優勢って意味をしていると言いました。その時豊臣が誤解を解いたり家康の言い分を聞いたりしたら良かったもののそうはいかなかったので大阪の陣フラグが上がっちゃいました。

※方広寺鐘銘事件の詳細はこちらを見てください!

大阪の陣のきっかけ!方広寺鐘名事件とは何か?

 

2.浪人衆を集めた豊臣勢

大阪の陣が勃発しても徳川側には軍勢があるため余裕です。一方で豊臣側はツムツムです。豊臣恩顧の武将にも頼れません。それくらい今となっては徳川につこうってなっているんでしょうね。もうここまで来たら浪人衆を呼び出すしかありませんでした。これが意外とあつまったんですよね。なんと約10万です!メインの武将としては幸村さんはもちろんのこと明石全登、後藤又兵衛、長曾我部盛親、毛利勝永などがいます。歴ヲタならばご存知ですよね?

※浪人だからって舐めたらあかんですよ。彼らたちはワンチャン再生したいまたは後世に伝説を残したいという気持ちで溢れていますから!実際に幸村さん以外の武将も最後の最後まで荒ぶったそうです。毛利勝永、後藤又兵衛などがそうだったそうです。これぞ浪人舐めんなよ!!浪人キレたら半端ねーぞです。

3.籠城戦と真田丸

これだけ軍勢が集まったならば豊臣方だって軍議をしないといけません。その時に論争は起きました。

それは幸村さん、毛利勝永、後藤又兵衛は城から討って出て積極的に野戦を行おうと提案しました。その方が徳川勢の諸大名を味方につける策を主張しました。ですが、この鉄壁な大阪城の守りに自信がある茶々や大野治長らは籠城策がいいと言い張りました。確かに、大阪城は敵が侵入しにくく、味方が逃げにくいですよ?ですが、状況が状況なのにそんなこと言えるなんて大丈夫かと思いますね。ここは浪人であれ現場に強い人の意見聞けよと思います。ただ、上が上なのでしょうがないです。そのためみんな籠城の準備に入りました。その際に幸村さんは大阪城は南側の守りが弱いから敵は南から来ると想定しました。そこで、幸村さんは平野口に独立した出城を作りたいい許されると、自ら出城に入って指揮を取る事となりました。その名が真田丸です!

 

真田丸の特徴

真田丸は防御するためのものです。ただ、防御と言っても巧妙なものです。ですので、真田丸の特徴を話しますね!

特徴

城の中心であり弱点でもある南側の城門を囲むようにするために半円形の曲輪を城外で形成します。そうすることで半円部分で寄せ手を撃退しつつ両方の出入り口から馬を出し寄せ手の側面に打撃を与えるものです。文章じゃよくわからないと思うので拾い画ですがこちらを載せておきますね!

思ったより空堀が広いようなイメージがあるのは私だけですかね?

また、真田丸は守りというよりかは責め路線です。どういうことかと言いますと攻守に優れた防御施設ということです。そのため、城にしては小さいですが城扱いとしてもいいものです。大きさとしては東西180mほどの半円形の曲輪で出口は後方と両脇にあったそうです。これは野球場よりも広いです。また、三方には堀を巡らし塀も備えて外側には三重の柵を敷いたそうです。

軍勢

このように、出城を大きくするなどかなり凝りました。ですが、軍勢はすくないんです。なんと幸村さんが手紙を送り大阪城に入った堀田作兵衛や、高梨内記、青柳清庵など九度山で生活した家臣たちをや浪人などの5000で真田丸を守ったそうです。徳川の軍勢は多いのに大丈夫なのかよって?そう思いますよね。それでいいんです!どういうことかは後ほど話します!

真田丸の功績

まず5,000と言われる真田勢が真田丸に篭ります。その際に1614年12月4日未明から前田利常、井伊直孝、松平忠直らの大軍が一斉に攻め掛かりました。ですが、幸村さんはそんな軍勢なんてじょうとうです。巧みな采配でさんざんに鉄砲で狙い撃ちをし大量の戦死者を出します。では、どんな感じで追いやったのか?

まずはじめに前田利常を挑発しておびきだしました。前田利常はちょっかいを出されて怒り攻撃をしました、。真田丸にある急勾配の空堀に誘い込んで雨のような銃弾を浴びせました。これで前田は壊滅です。それを見た井伊直孝と松平忠直は手柄を取られまいと競り合いながら真田丸に押し寄せます。ですが、前田隊と同じように空堀に誘い込まれたことによって井伊も松平も壊滅しました。空堀の威力すごいですね。なんか一説には空堀の中で退くにも退けずもがき苦しむ敵を見た幸村さんがかわいそうに思って射撃をやめさせたというほどだそうですよ?かわいそく思うってどんだけだよと思いますが。また、冬の陣の幕府方の死者のうち5分の4が真田丸での戦死者だそうです。

周りもびっくりするほどの戦力

幸村さんの戦略は見ている人までにも衝撃をあたえたそうです。この戦いを目撃したイエズス会は「かつてないほどの大虐殺。鉛の涙をみるくらい信じられないものだった」と言っています。想像を絶する惨状ってことでもありますね。

真田丸の結末

冬の陣で荒ぶった幸村さん。この功績は伝説の1つとして残りましたが真田丸な残念なことに壊されました。冬の陣でボコボコになった徳川勢は大阪城に大砲を打つという形で脅しました。そのため茶々達は和睦をしたいと言います。その際に真田丸は壊せという条件が入っていたため壊されました。名物が壊されるなんて残念ですね。ですが、幸村さんはめげません。夏の陣でも荒ぶります!それは別記事にて話しますね!

真田丸に抜け穴あり!

その三光神社に真田丸から大阪城へ繋がる抜け穴であるという話があります。なんか徳川勢が真田丸を攻めるために途中まで掘った穴と推測されています。見てみたいですよね。ですが今は危険であるため抜け穴の入口は真田の六文銭の鉄の扉で閉ざされているそうです。閉ざし方のセンスいいですねwwwwwwww。

まとめ

この記事を書いている時についつい真田丸のイントロが流れちゃいましたね。それくらいに真田丸が大好きでした。ただ、いざ調べたら自分の知らないことだらけでしたね。ここまで強いだなんて思ってもなかったです。空堀のパワー凄すぎですね。広くしたのは敵をコテンパにするためですかね?空堀ご遠ければ本丸に行けるわけないですし。あと幸村さんが自分で作ったのに自分でやりすぎたとか言うのが笑っちゃいました。言えることはそれくらいですね。ですので、もう終わらせますね。最後まで読んでいただきありがとうございました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう