大阪の陣のきっかけ!方広寺鐘名事件とは何か?

どうも、りかちゅうです!関ヶ原の戦いでは三成だけが処刑でした。となると、茶々と秀頼は生きていたのって?そうですよ!領地は減ったものの大名扱いではありました。しかも、豊臣と徳川が一緒になって色々やっていこうみたいな感じもありましたからね。そうじゃなきゃ秀頼と千姫は結婚しません。それもあってなのか、豊臣の力はまだ強かったです。となると、豊臣方は内心はまた権力を持ちたいとなるはずです。茶々の性格からしてもそうなるでしょうね?それで、その心を煽るような事件が起きました。それは方広寺鐘名事件です。簡単の言えば鐘名の文字がきっかけで豊臣と徳川が対立した感じです。では一体どんな事件だったのか?この記事にて話したいと思います!

方広寺鐘名事件とは?

大阪の陣と言えばこの事件です。この事件があったから対立が深まりました。では、どのような事件だったのか?

方広寺鐘名事件とは1614年に方広寺の梵鐘に刻まれた文字に対して家康が激怒する事件のことです。詳細としては方広寺の大仏を鋳造した際に合わせて作った梵鐘に「君臣豊楽」「国家安康」という文字が彫られます。1つ目は豊臣の逆にしていますね。一方で2つ目は家康の間に「安」を入れるという形で離していますね。そのため、家康は自分の名前の文字を引き裂き呪いだと激怒しました。そして、この事件をきっかけに大阪の陣が勃発し豊臣家は滅びることになります。

方広寺鐘名事件の経緯

以上が方広寺鐘名事件です。豊臣が鐘銘の文面で喧嘩を売ったって感じですね。ではその事件に至るまでどのような経緯があったのか?

1.方広寺の大仏を建てる

秀吉は京都の方広寺に日本一高い大仏を立てようとして実際に造りました。ですが、秀吉の立てた大仏は地震で倒壊してしまいました。ですが、その後再建されることのないまま秀吉は亡くなってしまいます。

2.関ヶ原の戦い

秀吉が亡くなったあと家康と三成は対立します。そして、関ヶ原の戦いが起きます。西軍は三成です。秀頼を天下人とする目的のために立ち上がった軍勢と思えば良いです。一方で東軍は徳川が天下を握るために組織された軍勢です。結果は当たり前ですが東軍が勝ちました。

3.関ヶ原以降の豊臣

関ヶ原の戦いの後、豊臣はすぐになくなりませんでした。確かに領地は減りましたよ?ですが一大名ではありました。そのため、豊臣を頼る大名は多かったです。清正さんなんて東軍だったのに関ヶ原以降は秀頼のそばにいましたからね。ちなみに、大阪城周辺の大名は豊臣を頼っていました。理由は関ヶ原の戦いの後も秀頼と茶々は生きていたからですね。要するに、豊臣も徳川も力を持っていた状態が10年近く続いていたと思えばいいです。ですが、そんな時に方広寺鐘名事件は起こります。

どんな事件だったのか?

このように、関ヶ原で徳川が勝っても豊臣寄りの人間がいました。それもあって、この事件が起きたと言っても過言ではありません。では方広寺鐘名事件とはどんな事件だったのか?

1.方広寺の大仏を再建

豊臣とも上手く協調していこうと考えていた家康は亡くなった秀吉の意志を継ぎ方広寺の大仏を再建することを秀頼に提案をします。もちろん秀頼も賛同したことから方広寺の大仏を再建していきます。ですが、同時期に作ることになった梵鐘が問題でした。大仏造立の総奉行をおこなっていた片桐且元は仕上げとして梵鐘の銘文を入れることにしました。その際に「国家安康」「君臣豊楽」という文字を入れようと考えました。

2.家康が激おこ?

この文字に対して家康は、家康という文字の間に安という文字を入れて家康を引き裂いていると言って怒りました。一方で君臣豊楽の方では豊臣はくっついており豊臣家の繁栄を祈願しているものと家康は判断します。ただ、家康も主観的になってはいけないと思ったのか林羅山にも解読を依頼しました。林羅山は家康の主張は正しいと断定しました。そのため家康は激おこプンプン丸になりました。あえてこのワードを使ってみました。また、これらの銘文は徳川家を呪うものであると考え大仏開眼の行事を引き延ばしました。それだけではありません。これを機に秀頼を徳川の家臣にしようとしましたが豊臣方は硬化な態度を取ったため大坂の陣に追い込みました。

方広寺鐘名事件のその後

確かに、文字的にも喧嘩売ってると思われても無理ないです。だからこそ、その後どうなったのか?

1.片桐の交渉

方広寺鐘名事件の後茶々が直家康の元を訪れて事情を説明するなどをしたことから家康はこの事件を許したと言われています。ですが、交渉を請け負った片桐且元はさらなる関係修復のために秀頼と茶々に「秀頼が江戸に住む」「淀殿を江戸に人質として置く」「秀頼が大阪城を退去する」の3つを進言しました。もちろん、茶々はこれらの条件を受け入れることができるわけもなく激怒します。そして、これらの内容を提示してきた片桐且元は徳川と内通していると疑いの目を向けるのです。真田丸でもそんなシーンがありましたね。

2.片桐の裏切り

方広寺鐘名事件の結果、片桐且元は豊臣からの信頼を無くしてしまいます。そのため、家康の元を頼ることにするのです。これは家康も喜びました。なぜなら、以前から家康は片桐且元の能力を評価していたからです。その際に片桐且元は家康からの信頼を得るために茶々が居る部屋や秀頼が居る部屋の場所の大阪城の機密情報を全て話してしまうのです。これも真田丸で描かれていましたね。

3.片桐の襲撃

徳川と内通していると疑われた片桐且元は豊臣側の刺客により襲撃を受けます。その知らせを受けて家康は戦いの意思表示であるとして大阪の陣が始まるのです。その際に大坂夏の陣では大阪城に大砲が撃ち込まれていますがこれは茶々の部屋を狙ったと言われています。このように、家康は片桐且元から重要な情報を得ていたため有利に展開して豊臣家を滅ぼすことになりました。

 

本当に言いがかりなの?

方広寺鐘名事件に関しては諸説あります。最初から家康が豊臣家を滅ぼすために計画をしていたという説が有名ではありました。ですが、最近では少し変わった見方もあります。それは徳川の陰謀ではなく純粋に豊臣側の落ち度ではなかったのかということです。根拠としては一旦は家康がこの事件を許していることです。もし最初から言いがかりをつけるつもりであったならば許すことはしないですからね?そのため、方広寺鐘名事件は徳川の陰謀ではなく豊臣の落ち度という説が有力なのです。

まとめ

真相はどうなんですかね?少なくとも言えるのは豊臣は権力を取り戻したい欲は絶対にあったはずです。茶々の性格ならば尚更のことです。あの方はお嬢育ちだから余計にそうなのかなと、それ故に家康は一旦は許したのに解決ぜす戦いになったのかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。