資本主義を学んだ?渋沢栄一とパリ万博

どうも、りかちゅうです!渋沢栄一といえば日本の実業家でもあり日本で初めて会社を作った人でもあります。これは揺るぎのない事実です。だからこそ、思うことがあります。それは何をきっかけで渋沢栄一はここまで成長したかということです。元から農商家の子供であるからこそ商売の知識はないわけではなかったはずです。もしなかったら事件ですwwwwwww。ただ、あるきっかけがなかったらここまでの大物にはならなかったです。そのきっかけがパリ万博です。渋沢栄一はパリ万博で資本主義のことや経済のことを学びました。それを具体的に話せって?今から話しますね。

パリ万博とは?

てか、パリ万博ってなんだよって思う人もいるかもしれません。ですので、パリ万博とは何かについて話しますね!パリ万国博覧会とはフランスの首都ことパリで過去に複数回開催された国際博覧会のことです。略してパリ万国博、パリ万博だなんて言われています。

パリ万博に関しては1855年に初めて開催されました。それ以降、パリでは、第一次世界大戦の時期を除いて、ほぼ10年ごとに大規模な国際博覧会を開催しました。

万博使節団として参加

ぶっちゃけたことを言うと日本が参加したのは1回目からではないです。2回目の1867年です。ただ、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ別に出展したそうです。もちろん渋沢栄一はその当時徳川慶喜の家臣であったので幕府組の人間として参加していました。ちなみに幕府組として参加したのは徳川慶喜の異母弟こと徳川昭武や渋沢栄一、高松凌雲、栗本鋤雲(じょううん)です。ちなみに徳川昭武は将軍代理というポジションでした。

日本が参加した理由と出展したもの

確かに、日本は開国した時期であるからパリ万博に参加するのはおかしくないと思うはずです。ですが、何がきっかけで参加したのかは分からないかと思われます。また、何を出展たのかもわからないですよね?ですので、参加した理由と出展したものについて話しますね!

理由

日本が参加した理由を簡単に言うとフランス政府から参加要請が来たからです。正直なことを言うとその当時の江戸幕府の権威が落ちて博覧会どころではなかったんです。幕末とはそういうものです。なのに参加したってどういうことと思いますよね。それにはフランスにはある思惑がありました。

それはフランスと親密な関係をいっそう強めることで軍事援助を受けたかったからだそうです。また、フランス滞在中だった柴田日向守曰くすでに薩摩の新納刑部や五代友厚らが万博に参加するのに対して幕府の権威を見せつけたかったから幕府組も参加したという情報もあります。

出展したもの

万博に出るということはもちろん出展するものがないといけません。では何を出展したのか?日本の展示物で高い評価を得たのは、和紙です。和紙に関してはすでに銅版画の用紙として珍重されてはいました。ですが、万博で出展したことで改めて品質の高さが認識されたそうです。また、金銀蒔絵は日本独特の鶴亀、松竹梅、富士、龍などの図柄が話題になりました。そして、さらに武者人形に関してはパリ万博でかなり影響を与えたそうです。やはり鎧を着た等身大の武者人形はパリにはないことからなのかサムライブームが起きたそうです。

それ以外にも浮世絵や屏風絵などはマネ、モネ、ルノワール、ゴッホなど、当時の画家たちに影響を与えたことから日本のグッズが描かれていたそうです。やはり、日本にしかない作品は海外に出展すれば評価は上がりますよね。

渋沢栄一が視察したもの

以上がパリ万博に関する全体の話です。もちろん、渋沢栄一は出典のための活動はしたと思います。じゃなかったらパリに行く意味ないですからねwwwww。ですが、渋沢栄一はパリに滞在しているときに視察したものがあります。それは銀行や証券取引所、病院、福祉施設、植物園などの娯楽施設、さらに、ガス・水道の近代的なインフラ構造です。その際に渋沢栄一は施設・整備がどのように運営されているのかなどに注目しました。要はヒト・モノ・カネがどのように動いているのかに焦点を当てたということです。これに関しては後ほど話しますが渋沢栄一に影響を与えた人のおかげでもあります。

また、このようなところに興味を示していることから渋沢栄一は資本主義を学びたかったのかなと思われます。ちなみに渋沢栄一は渋沢は資本主義のことを合本主義と呼んでいました。

渋沢栄一に影響を与えた人と理論

先ほども述べたように渋沢栄一は資本主義に関心を持つようになりました。その理由はとある人ととある理論のおかげです。ですので、今からその話をしますね。

人物

フリューリ=エラールという人です。銀行家で日本名誉総領事として昭武一行を世話し、渋沢栄一にフランス経済や経営の実態を教えた人でもあります。ちなみにフリューリ=エラールは渋沢栄一に「寝かせておける金があれば、いますぐに鉄道債を買いなさい」とまで言っています。それで、短い期間に利益が出るようなことに渋沢栄一は驚いたそうです。また、渋沢栄一はパリ滞在中にその仕組みを一生懸命に研究し、社債や国債、公債、株式などを勉強しました。

理論

サン=シモン主義です。サン=シモン主義はフランスの社会思想家サン=シモンという人がが唱えた経済理論です。どういう理論かと言いますと資本的基盤のないところに株式市場を作りカネを集め、新しい産業を起こし、鉄道・海運の流通網を拡充させるという理論です。いわゆるヒト・モノ・カネを動かす理論ですね。まあ、今となっては当たり前の話ではあります。ですが、当時は画期的な理論でした。さらに、競争という概念を植え付けるために万博を開き、出展作に金・銀・銅のメダルを与えたそうです。

ちなみにナポレオンはサン=シモン主義を実践し、わずか15年くらいでイギリスのGDPを追い越し、近代的資本主義を確立させました。マリーアントアネット時代のフランスは貧富の差が激しかったのにもかかわらずここまで成長させたのはすごいなと思います。

もし渋沢栄一がパリに行かなかったら?

歴史に「もし」というワードを使うのは少しあれですが渋沢栄一がパリに行かなかったらここまでの実業家にはなっていなかったのかなと思われます。確かに、先天的にすごい人ではありますが後天的に学習する機会があったからこそここま有名になったのかなと思われます。ちなみにもし渋沢栄一がいなかったら日本は西洋列強の植民地になっていたかもしれないとまで言われています(日本が長く鎖国してた理由はそこなんです)。それくらい奇跡の存在と言っても過言ではありません。

まとめ

その当時の渋沢栄一は幕臣という身分であったことからこのようなご縁はいただいたのかなと思われます。散々倒幕やら尊王攘夷とか言っていた渋沢栄一がそんなにも立場が変わったのは思ってもない話だなと私は思いますけどね。ただ、ここまで上り詰められたからこそパリに行き色々学習できたのかなと思われます。もしパリに行かなかったらそれなりに功績はあるもののきっと奇跡の存在みたいに扱われなかったと思われます。要は渋沢栄一にはタイミングや運の良さがあるということですね。だからこそ、渋沢栄一がパリに行ったという事実は彼にとって貴重な体験なのではないのかなと思っています!以上です!最後まで呼んでいただきありがとうございました。

りかちゅう