幕末のイケメン!渋沢平九郎の人生

どうも、りかちゅうです!渋沢平九郎という人物はご存知ですか?おそらく、2021年の大河ドラマ「青天を衝け」を見ている人ならばご存知かと思われます。簡単に言えば渋沢栄一の従兄弟で、その後に渋沢栄一の養子となり幕臣になった人です。末路としては戊辰戦争で22歳という若さでいなくなりました。このように、結末は悲しいものではあるものの、幕末に詳しい人ならば知っている人はそれなりにいます。実際に、幕末のイケメンで有名でしたしね(見かけ以外にも行動も含めて)。ただ、幕末に詳しくなかったら知らない人もいるはずです。ですので、この記事にて渋沢平九郎について話したいと思います!

渋沢平九郎のプロフィール

まず渋沢平九郎がどのような人物かを知るためにも簡単なプロフィールを作りました!

名前 尾高平九郎(後ほど渋沢平九郎)

出身地

武蔵国榛沢郡下手計村(今の埼玉県深谷市下手計です)

生年月日

1847年12月24日

まさかのクリスマスイブだとは思ってもなかったです←。

死没

1868年7月12日

備考

渋沢栄一の奥さんこと千代とは姉弟関係です。ですので、渋沢栄一の養子になる前までは渋沢栄一とは義兄弟でした。

イケメンだったの?

タイトルを見てこの人そんなにイケメンなのとは思いましたよね。私自身、調べててそうなのかよとなりました。まあ、実際にイケメンではあったそうです(写真を見てもそこら辺は分かるかと思いますが)。ちなみに身長は174cmとあの時代にしては高身長でした。渋沢栄一なんて150cmしかないですからね(なのな青天を衝けでは吉沢亮くんが演じてますねwwwwww)?また、このような評価もあったそうです。

十八九歳ヨリハ撃剣ヲ人ニ教授スルニ至ル、而シテ容儀端美、白哲長身膂力人ニ過キ、

18、19歳のころには剣の腕前は指導するほどになり、そのふるまいは美しく、長身で色白、腕力もあった(現代語訳)

高身長でキリッとした見かけからしてもイケメンなのは間違いないですがおまけに色白である腕力の持ち主であるとるとイケメン具合が増しますね。このように、あの時代からイケメンと言われていたからこそ今の時代でもイケメンな人と言われているのかと思われます。

渋沢平九郎の人生

以上が渋沢平九郎の概要です。では、彼はどのような人生を歩んだのか?

1.尾高家に生まれる

先ほども述べたように渋沢栄一の養子になってから苗字は渋沢になりました。実を言うと彼は武蔵国榛沢郡下手計村(今の埼玉県深谷市下手計)の名主である尾高保孝(尾高藤五郎保孝)の末っ子として1847年に生まれました。ですので、苗字はもちろん尾高平九郎です。ちなみに渋沢栄一とは7歳違いの従兄弟同士だったそうです。どういうことかと言いますと渋沢栄一のお姉さんがお母さんであるということです。彼の幼少時代は剣術を得意とし、17、8歳頃から人に教えるくらいのレベルでした。

2.高崎城乗っ取り計画に参加する

渋沢栄一は20代で尊王攘夷運動に参加しているのは有名ではあるかとおもわれます。ドラマでもそのシーンはありましたしね。実は彼も尊王攘夷運動には参加してました。詳細としては1863年に彼のの兄の尾高惇忠、渋沢成一郎などと一緒に高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画をたてます。ただ、中止になりました。その後は栄一は京都に行きラスト将軍でもある徳川慶喜に仕えたものの、平九郎は郷里にとどまり藍玉製造販売などに務めました。その時ももちろん剣術を教えるなど学問をする生活を送っていたそうです。

3.渋沢栄一の見立て養子になる

1867年に栄一は德川昭武と共にパリ万博視察のためフランスに渡りました。詳しいことに関してはこちらを見てください!

資本主義を学んだ?渋沢栄一とパリ万博

その際、渋沢栄一はもし自分の身に何か起きた時、相続者がいなかったら幕臣としての人がいなくなってしまうことから渋沢栄一は平九郎を見立養子にとして指名しました。その後はもちろん、渋沢栄一の養子ですから渋沢平九郎に改名しました。

渋沢栄一は養子になってから平九郎は10月に江戸に出て、屋敷を構えます。場所としては今の日本橋室町で、三越日本橋本店に近かったそうです。それで、文武修行に励んだうです。

4.彰義隊の結成

皆さんご存知かと思いますが1867年に大政奉還や王政復古の大号令があり、江戸幕府は終わりました。ただ、それで終わりではないです。なんと、戊辰戦争が勃発しました。しかも、幕府側は初っ端の鳥羽伏見の戦いで敗れてるからこそゴダゴダです。それ故に平九郎はフランスにいる渋沢栄一に徳川家は大変なことを手紙に書きました。その間、徳川慶喜が江戸に戻り寛永寺に謹慎した際に彰義隊が結成されました。彰義隊とは徳川慶喜の警護などを目的とした部隊です。

5.戊辰戦争に参加

彰義隊結成時の中心メンバーには、平九郎や渋沢成一郎などがいました。ちなみに、2人は徳川慶喜が将軍になると幕臣になっていました。それ故に平九郎は幕府軍として参加し、第二青隊伍長となりました。この時幕府側はたとえ関東が新政府の支配になったとしても徳川家の再興を図ろうという思惑はあったそうです。そこで、初めは水戸に行きました。ただ、江戸が無血開城となり、徳川慶喜は水戸に来たことから平九郎は徳川慶喜に会ってから江戸に戻りました。

 

6. 振武軍を結成

江戸に来た時に色々問題がありました。なんと彰義隊の内部が渋沢成一郎派と天野八郎派で対立をしていました。平九郎は天野八郎の行動に衝撃を受けたり新政府軍からも狙われたりしていたことから彰義隊から離れ振武軍を結成しました。その間、戊辰戦争の1つでもある上野戦争が起き、彰義隊を支援しようといったん江戸に向かいました。ですが、彰義隊は早く壊滅したことから平九郎は埼玉の飯能に入りました。

7.自刃する

新政府軍が飯能に攻め込み、平九郎も出陣するが敗れました。まあ、初っ端から幕府軍は敗れてましたしね。出来レース戦争だったからこそ。ただ、平九郎は一人落ち延びて、越生の黒山のあたりに向かって行っていたそうです。ですが、黒山の道で、新政府についていた広島藩兵たちに咎められました。その際に平九郎は追い詰められ自刃しました。わずか22歳の若さでした。

徳川家に忠義心があった

尊王攘夷ではあったものの、平九郎は、幕臣の子なった時は徳川家に何かあったら忠義を示していたそうです。どれだけ忠義心があったかと言いますとたとえ自分を犠牲にしてでも、勤めなければいけないという意識があるくらいです。このような姿からしても真面目な人なのかと思われます。また、渋沢栄一がパリに行っていたからこそ代わりに徳川家に殉じたのかと思われます。

まとめ

正直なことを言うと、平九郎に関しては渋沢栄一との繋がりがあったから調べて記事にしました。じゃないと書かなかったです。書いてて思ったこととしてまずはイケメンですね。ルックスかよと思いわれちゃいますがそう言われてるからこそ余計に気にしてしまいました。あとは真面目で武道にも優れていたのにもかかわらず戊辰戦争でいなくなってしまったのは悲しい話ではあるなとは思いました。しかも、年齢が若いからこそ余計に悲しいとは思いましたね。出来レース戦争で負けるだなんて。だからこそ、もし生きていたらどんな人生だったのかは気になる点だなとは思いました。締めが悪いですが書くことがないので以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう