なぜ信長と足利義昭は対立したのか?

どうも、りかちゅうです!室町幕府ってどのような形で終わったかはご存知ですか?教科書には書かれていますが簡単に言いますと信長が足利義昭を追放したからです。そして、それ以降は本能寺の変まで信長が1番の勢力となりました。てか、どうして信長は追放したんだよって?それは2人の仲がどんどん悪くなり、信長の都合上悪いだけでなく政策的にも支障があったからです。意外かもしれませんが初めのうちは麒麟がくるを見れば分かるように足利義昭は信長なことを慕っていたんですけどね。ではそんな2人がなぜ仲悪くなってしまったのか?この記事にて話したいと思います!

足利義昭と信長の出会い

結果的には対立してしまったもののなんでそもそも論2人は出会ったんだよって思いますよね?ですので、まずは2人の出会いから話しますね。

2人の出会いは足利義昭が上洛するとなった時ですね。若い頃の義昭は家督相続者以外の子であったため出家し、覚慶と名乗っていました。ですが、14代将軍がいなくなってしまったため、急きょ将軍になることになりました。ですが、上洛してくれる将軍が見つかりませんでした。室町時代の上洛とは京都にいる足利幕府の将軍を保護することです。理由はみんなして色々あったからです。家の争いなら他の家の対立などなど。実際に信長も美濃での争いがあり上洛を拒否しました。

ですが、細川藤孝が信長に交渉をしたことでようやく信長は上洛の案に乗ってくれました。これが2人の出会いです。これにより、信長は将軍家を守護する者であるとみなされ、全国に大きな影響を与えることができました。

出会った頃の2人

先ほども述べたように2人は仲良かったですし、義昭は信長の上洛に関して感謝をしていました。それもあって足利義昭は信長のことを「室町殿御父」とまで言っていました。これを見ても足利義昭は信長のことを信頼していいるのが明らかですね。そりゃ、足利義昭はどこの大名相手にされてないのに信長だけは助けてくれだからこそ信頼はしますよね。というか誰も幕府の相手をしないということは致命的でもあるんですけどwwwwww。

また、信長も自分の武力によって廃れた幕府を回復して新しい秩序を作ろうとしていました。要するに、上洛はその目標を達成するための足がかりってことですね。それ故に信長は将軍を立てつつも全国を支配するのはあくまで織田信長自身の力でなくてはならなかったのです。出家していた人が運営なんてできないですから当たり前ですよね。ただ、信長は自分の立場だけを押し付けていたわけではなかったので足利義昭の身の安全を守るために二条城を築城しました。京都に行ったことある人なら誰かしら二条城を見ているはずです!私は見たことあります。

このような所を見ても2人の仲は悪くないのは明らかかと思われます。むしろ、信長は将軍がいながら運営する。足利義昭は信長のサポートに感謝をするという感じで特に悪い点はないのではないと思われます。麒麟がくるでも2人は共に笑っている感じでした。

関係が悪化した経緯

上記の内容通り初めのうちはお互い気持ちがかよっていたのは分かったかと思われます。ですが、そんな2人も仲が悪くなり、最終的には足利義昭は追放されてしまいました。一体何があったのか?

1.はじめての衝突

2人が初めて衝突したのは1569年だと推測されています。信長は10万ほどの軍勢を北畠氏を攻めましたが思ったよりも手こずってしまい落城することができませんでした。それ故に足利義昭は、和睦の仲介役となり、信長に有利な条件で開城させることができました。ですな、そして、信長は足利義昭に報告します。ですが、一週間もしないうちに信長は怒って突如美濃へ帰国してしまいます。理由は足利義昭が信長に対して尊大な態度を取ったからです。

2.すれ違ってく思惑

尊大な態度を取ったのが嫌で信長は勝手に美濃に帰っていった述べたがそのような形で信長は捉えたのは2人の思惑がすれ違っていったからだと思われます。足利義昭は将軍になって幕府を再生しようという気持ちがありました。となると足利義昭からしたら信長は家臣にすぎないと思っていたのと同然ですね。一方、信長は足利義昭を慕って将軍にしたわけではありません。むしろ、先ほども述べたように自分が幕府を運営して勢力を拡大するという考えがありました。このように2人の価値観の違いがどんどん色濃くなり関係が悪化しました。それ故に足利義昭は和睦をした時期から尊大な態度を取ったと捉えたのかと思われます。

3.喧嘩を売る信長

足利義昭が将軍として存在感を発揮していくとの信長は不利になります。これ以上目立ってしまうと自分の権力がなくなると。ですので、牽制しておく必要がありました。要は信長は自分が将軍代行と見せつけたかったのです。まあ、足利義昭が統治できる能力はなかったらしいですしね。それ故に信長は1570年ひに信長は義昭に対する「五カ条条書」と諸大名に対する「信長触書」を作りました。

内容は五カ条条書の場合、政治のことは信長に任せ、勝手に大名に御内書で命令を下したりしないことを言い、信長触書は、「信長が上洛するから、他の大名もそれを真似て上洛するように」と呼びかけました。信長中心にしろということですね。

4.十七ヵ条の異見書

さらに、追加するなら信長は1572年9月に義昭の失政を厳しく指摘した。十七カ条の異見書を書きました。例えば、信長の許可なく大名へ御内書を遣わしていることや私情にかられた人事や待遇をしている件などはもちろんのこと足利義昭の人格を否定するような内容まで書いていました。これを見て足利義昭は激おこ状態になり信長アンチと共に包囲網は確実に形成されていきました。信長と敵対関係にあった本願寺、そして激戦を繰り広げてきた朝倉、浅井、さらに三好や松永などがアンチメンバーですね。

5.足利義昭追放!

そして1573年2月、ついに義昭が打倒信長の兵を挙げます。その時に武田信玄も関わっていました。ただ、体調悪化によって西上作戦が停滞していたそうです。まあ、信長は武田信玄と足利義昭がやりとりしてるのは察してました。それで

戦いの様子としては万全の準備を整えて甲府を出陣した武田軍を倒すのは至難でした。ちなみに家康は信玄に三方が原の戦いで大敗しています。そんな時とある幸運が舞い降りました。それは武田信玄が西上作戦の途上で病に倒れて亡くなったことです。信長は足利義昭に対して、周辺を焼き討ちするなどして煽り、和睦の交渉を進めますが足利義昭は拒否をしました。天皇に和睦を頼んでも拒否。それ故に7月に足利義昭を追放しました。

追放に関しては最終手段だった

追放と聞くとなんてことだとはなりますよね。信長厳しくないと。ですが、これは最終手段でした。十七箇条意見書に関しても頭ごなしでの批判ではありません。本当に足利義昭はポンコツでしたし評判も悪かったです。だから、こうした方がいいという発言をしました。それなのに足利義昭はブチ切れた感じですね。まあ、将軍という立場に何をいうんだとなったのかもしれませんね。

また、義昭が対抗しても信長は天皇に頼んで和睦をするという行為もしました。それなのに足利義昭はまたまた対抗したので追放という形で対処したのです。聞く耳も持たないし自分の夢も妨げるような人だったらそりゃもう追いやるしかないですよね。

まとめ

まあ、確かに双方の価値観がずれていったから対立したというのは一理あることにはあるとは思っています。ただ、私的にはこの2人が対立したのはトップは2人いらないからだからかと思っています。かつては信長自身、将軍を支えようという考えから色々サポートはしていたとは思います。ですが、信長自身の本来の目的は幕府の元で働くことではなく天下を取ることです。そうなると足利義昭の存在は邪魔になってきます。トップは2人いらないとはこういうことです。それでもって足利義昭はポンコツであったらもう追いやるしかないですね。どう考えても信長の方が有能ですから。

このようなことを踏まえて学べることはトップが2人いたら対立は確実にあり得るということです。これは信長と足利義昭の関係だけでなく関ヶ原以後の豊臣と徳川も同じです。ですので、もしトップが2人いるというようなことが起きたら気に留めておくのは大事かと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう