2人はロミジュリ?大姫と義高の一生とは

どうも、りかちゅうです!久しぶりにふざけたタイトルにしました。鎌倉殿のコラムでは楽しく書きたいと思っています。なぜなら、麒麟がくるぶりに面白い大河ドラマだからです(個人的に青天を衝けがつまらなかっただけですが)。でも、内容はふざけられません。タイトル通りロミジュリと言ってもいいくらいの悲しいラブストーリーです。きっとその時代が分かる人ならば誰のことか分かることでしょう。いや、もうタイトル見れば分かりますね。それで、今回はその2人の人生について書きたいと思います。きっとこの記事を読んで鎌倉殿の頼朝にヘイトを溜めること間違い無いです!

2人のプロフィール

大姫と義高がどんな人かを知るためにまずは2人のプロフィールから見ていきたいと思います!

源義高のプロフィール

名前 源義高

生年月日 推定1173年

出身地 信濃国(今で言う長野県です)

没年 1184年6月6日(享年推定12歳)

備考

木曾義仲の息子です。後ほど話しますが事実上大人の事情で頼朝側の人質となります。そして、義仲が負けてしまったことから義高も制裁されました。

大姫のプロフィール

名前 大姫

生年月日 推定1178年

出身地 伊豆

没年 1197年8月28日(享年推定20歳)

備考

政子と頼朝の間に生まれた子供です。長女です。大人の都合により若いうちに義高と結婚しました。年齢に関しては後ほど話しますね。驚くと思います。義高がいなくなってからは精神的なショックで病になってしまいました。ただ、一条高能との縁談話などがあるものの断り、その後20歳でいなくなりました。

源義高の人生

以上が2人のプロフィールです。では、2人はどんな人生だったのか?まずは義高から!

1.義仲の子として生まれる

1173年に源義高は木曾義仲と中原兼遠の娘の子として生まれました。木曽義仲とは信濃で育った源氏の一門です。ちなみに、清盛がなくなった後に平家一門を京都から追い出した源氏の強者です。それで、義高はどんな人だったのか?そこに関してはデータがありませんでした。ただ、鎌倉殿ではイケメンキャラではいるのは確かです。

2.11歳で結婚する?

11歳で結婚するのは理由があります。その話からしますね。それは義仲と頼朝の関係です。2人はいとこ同士でした。2人のお父さんに関しては対立関係ではあったものの、義仲と頼朝が恨み合うことはありませんでした。ですが、ある事件が起きました。それは義仲が頼朝と対立していた志田義広と源頼家(2人とも頼朝の叔父です)を庇った疑惑が生まれ頼朝と義仲の両者は対立寸前になりました。ですが、義仲が11歳の義高を人質として鎌倉へ差し出す事で解決しました。その際の条件は頼朝の長女・大姫と結婚することです。政略結婚という名の事実上人質です。

3.義仲が敗北する

1183年に義仲は平家を破って入京しました。しかし後白河法皇と対立してしまったことから義仲と頼朝はバトル関係になります。とは言えども頼朝は現場にはいませんでした。源範頼と義経を京に派遣し1184年1月義仲は「宇治川の戦い」で追討軍に敗れ「粟津の戦い」で討たれました。詳しいことはこちらに書かれています!

義仲の最期!宇治川の戦いと粟津の戦い

4.義高も討たれる

義仲が頼朝に討たれると頼朝は義高もいつか反乱をおこすと思い謀殺を考えました。自分の娘が義高と婚姻関係なのによくやれるなと思いますけど…。それを知った頼朝の大姫は、義高を密かに逃がそうとすしたした。しかし、夜になってこの事が頼朝に知られると頼朝は激怒し義高を討ち取るよう命じた。義高は武蔵国で捕らえられ討たれました。享年わずかの12歳です。

大姫の人生

以上が義高の人生です。では、大姫はどのような人生だったのか?

1.大姫生まれる!

1178年に頼朝と政子の2人の間に初めて授かった子が大姫でした。「大姫」とは、「貴人の長女」を意味する呼び方です。実名ではありません。彼女の本名を一幡とする説あります。女性ほどデータが残らないのでそこは仕方ないですね。また、幼少期はどんな子だったかも分からないです。申し訳ないです。

2.6歳で結婚

え?6歳?小学生と思いますよね。昔の時代でも6歳で結婚は早すぎます。お相手は義仲の息子こと義高です。建前上 は義高は大姫の婚約者です。ただ、先ほども述べたように本音は和睦のための人質です。幼い大姫は恋愛感情というよりも義高を純粋に慕っていた感じでした。それもあって、人質の身でありながら大姫の婚約者である義高は幸せな生活を送っていました。もちろん、大姫も幸せでした。

3.義高を脱走させるために助ける

幸せな日々は長くはなかったです。1184年義仲が負けました。もちろん、頼朝は義高を狙いました。ですが、この計画はあらかじめ大姫側に漏れていました。そこで、大姫は1184年4月21日早朝侍女たちの助けを借りて義高を鎌倉から脱走させようとしました。詳細としては義高の同年配の側近・海野幸氏が義高の身代わりとなって時間稼ぎし義高は信濃を目指すという計画です。ですが、義高の脱走がバレました。そして、頼朝は兵を派遣し、義高は討たれました。

4.ショックより衰弱

7歳の大姫は義高がいなくなったことでショックを受けました。なんと水も飲めないほど衰弱してしまいました。それを見た政子は激怒し頼朝に猛烈な抗議をします。そのため頼朝は義高を殺した藤内光澄を無残にも斬首しています。そんなことしても無駄です。大姫は病気になってしまいました。そこまで来たら頼朝と政子は義高の追善供養や加持祈祷などを行ったり最期の地である狭山の入間川のほとりに清水冠者とも呼ばれた彼を祀る清水八幡宮を建てたりました。

5.病気が長引きいなくなる

1194年大姫に頼朝の甥一条高能と縁談話がありました。しかし、大姫は結婚するなら身投げすると拒絶しています。そこで、頼朝は大姫を後鳥羽天皇の妃にすることを計画しました。なんとかして交渉に臨みますが結局この計画は成功しませんでした。そして、ついに1197年7月ほとんど病に伏せる毎日だった大姫は死没しています。

平安末期のロミオとジュリエット…。

何度も言いますが平安末期のロミオとジュリエットですね。初めのうちは停戦を兼ねた結婚だったものの、そうはいかなかったせいで悲劇を産みましたね。きっと初めのうちは2人とも大人の事情という名のお見合いだとは思っていたに違いないです。昔の時代なんてそんなもんです。それが定めなんです。ですが、そんな中でも恋に落ちたのは事実です。それなのに親が敵同士になってしまったことから2人とも悲しい人生になってしまったのかと思われます。短命で終わってしまったからこそ尚更です。そんなことあっていいのかよと嘆いてしまいます。

そして、鎌倉殿を見ている人からしたら頼朝へのヘイトが溜まるに違いないです。現実の頼朝はわからないですが鎌倉殿の頼朝はなぜか嫌われますね。

まとめ

こういう類の話は別の時代だってあります。江戸時代ならば大阪の陣ですね。千姫と秀頼がそうですよね。このように、大人の事情によって子供の恋愛は台無しになってしまうことはあります。今の時代だとなかなかない話ですよね。私もそんな仕打ちがあったらかなりのショックを受けるかと思われます。そして、大人を憎く思うことでしょう。このように、昔の時代には恋愛において理不尽ななことがあることを覚えてください!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう