源氏の味方!上総広常とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!頼朝が平家を倒すに当たってかなり強い味方がいました。その名は上総広常です。この人がいなかったらきっと石橋山の戦いから再起を図ることは出来なかったんじゃないのかと思われます。私的には梶原景時並みの恩人だと思っています。それで、上総広常の家元はどれくらい最強だったのか?今でいう千葉エリアで1番強いと言っても過言ではないです。そんな人が頼朝の味方であるとなれば本当に心強いです。では、上総広常とはどんな人なのか?この記事にて話したいと思います!

上総広常のプロフィール

上総広常がどういった人だったかを知るためにもプロフィールから見てきましょう。毎回同じテンプレで飽き飽きしてるかもしれません。申し訳ございません。

名前 上総広常

生年月日 不明

出身地 上総国(今の千葉県中部です)

没年 1184年2月3日

備考

上総国、下総国に所領を持ち、関東隋一の勢力を持った有力武将です。源頼朝の平氏討伐に協力した何もかかわらず後々謀反を疑われ誅殺されました。

上総広常の人生

プロフィールはこんな感じです。では、どんな人生を歩んだのか?

1.有力な豪族

上総広常は上総国の在庁官人平常澄の八男として生まれました。平常澄の官職は上総権介と言います。これは実質上総国においては一番上の地位です。ちなみに一族は桓武天皇の子孫である坂東八平氏の一角で千葉の房総半島で勢力を極めた房総平氏の系統にあたります。え?それなのに源氏の味方なのって?そうなんですよね。そこら辺は後ほど話しますね。ところで、上総広常の子供時代はあまりデータはないですが逸話として鳥羽上皇を騙していたキツネを退治したそうです。

2.源義朝に従う

上総氏は父常澄の代から、源氏の棟梁こと源義朝に仕えています。もちろん保元の乱、平治の乱では義朝の兵として戦っています。特に活躍したのは平治の乱です。源義朝の長男こと源義平が平重盛を退ける奮闘を見せていた時に上総広常は源義平が率いた十七騎のひとりだったとされています。ただ、最終的に源氏は敗北することになり平氏が牛耳っていくことになります。それ故に上総広常は平家に下ることになります。

あの、平家の血なのに源氏に従ったんだよって?それは関東での勢力を強めようとしていた同士利害が一致していたためです。それ故に上総広常は形勢が平氏に傾いた際もたきも従うことに抵抗はなかったのかも知れません。そして、常景、常茂達(上総広常の兄)と家督を争ったのち上総広常が引継ぐことになりました。

3.平清盛に勘当される

平家に従っていた上総広常でした。ただ、1179年に平家の有力家人である伊藤忠清が上総の国のトップである「上総介」に任じられたことで事件は起きます。上総氏は上総・下総2ヶ国に所領を持つ大きな勢力でした。となると上総介の座を失うことはそれらの勢力を維持できなくなることを意味します。また、国務に対する考え方にも違いがあり対立しました。それ故に平清盛に勘当されました。

 

4.頼朝の味方になる

1180年8月に平家打倒を決意し挙兵した頼朝でしたが、9月の石橋山の戦いにおいて平家に敗北しました。それで、安房国で再挙を図る頼朝のもとに現れたのが上総広常でした。なんと2万騎もの手勢があった上総広常は頼朝に合流する最中に上総国内の平家方をつぶしたそうです。これは相当の戦力ですね。ただ、上総広常は心の中で頼朝の器量を見極めていたそうです。もちろん、器量がなかったらうとうと討とうと考えていました。要は試していたということですね。そして、その後は源氏に仕えるようになりました。

5.金砂城の戦い

1180年11月の富士川の戦いで平維盛に勝利した頼朝は平家の追撃を命じました。ですが上総広常は姻戚関係でもある佐竹氏討伐を主張しました。それを受け入れた頼朝は佐竹氏の本拠地である常陸へ向かいます。向かった結果、当主の佐竹隆義は不在ではかったものの上総広常は嫡男の佐竹義政を殺害しました。それを知った次男の佐竹秀義は金砂城で籠城しました。そこで、

上総常広は佐竹秀義の叔父こと佐竹義季を味方にし金砂城の仕組みを聞き出し佐竹秀義を敗走させました。姻戚関係もあるのに何でそんなことをしたのか?それは佐竹氏が関東に残る平家方最大勢力であったからです。

 

6.謀反の疑いのせいで殺される

御家人のなかでも抜きんでた力を持っていましたが結末はいいものではないです。1183年に頼朝に謀反を疑われ、御家人の梶原景時によって暗殺されてしまうのです。シチュエーションとしては上総広常が双六をやっているときにその盤上を乗り越えて梶原景時は喉元を切りました。

本当に謀反を起こすような奴だったのか?

たしかに、態度が横柄だったから色々疑われて殺されていましました。普段の行いは大切ですね。でも、本当に謀反を起こすような人だったのか?

1184年に上総広常の鎧と一通の書状がみつかったことから頼朝に届けることにしました。書状の内容には、3年のうちに神田二十町を寄進すること、神殿の造営をすること、万度の流鏑馬を射ることという計画が書かれていました。これは頼朝の祈願成就や東国泰平のためであるかかれていたそうです、これを読んだ頼朝は、激しく後悔したそうです。そして、捕らわれの身となっていた天羽直胤や相馬常清らはすぐに釈放されました。しかし、没収された所領は返還されることなく千葉氏が引継ぎました。

上総広常の性格

何度も言ってますが態度は横柄です。そんな彼はどうあった性格なのか?

1.本心が分かりにくかった

平家の流れを持つ家系であるもなの、源氏に味方した上総広常。最大級ともいえる戦力や兵力で頼朝を助けるなど鎌倉幕府を立ち上げるに当たってかなり貢献をした人物でさあります。それなのに、頼朝の命で最期をむかえた人物でもあります。ただ、日頃の横暴な態度から誤解されやすいとは言えども奥底にある本心が伝わりにくい人物ではあったそうです。

2.プライドが高かった

頼朝が避暑のために三浦荘へ訪れ宴がありました。その宴に頼朝が来た時御家人一同が馬を降りて挨拶していました。なのに、上総広常だけは馬を降りなかったそうです。また、御家人の岡崎義実が水干という高価な装束を頼朝もらったときに上総広常はこの衣装は自分の武将でないと似合わない的な発言をしたそうです。もちろん口論になりましたよ。このように、関東隋一の有力武将だったことから頼朝にも引けを取らないみたいな態度だったのかと思われます。

まとめ

頼朝には命の恩人とされる人達が沢山います。梶原景時もその内の1人です。石橋山の戦いで敗走してる時に見逃してもらってなかったら殺されていたかもしれないですしね。それで、上総広常はどういう意味で恩人なのか?それは石橋山の戦いから再起を図るときに味方してくれたという意味で恩人なのかなと思います。「鎌倉殿の13人」を見ても分かるように上総広常はすぐに味方をしてくれるみたいな感じではなかったと思います。ですが、最終的に味方になってくれたおかげで再起を図ることができたのかと思われます。私的には平清盛に勘当されたのはデカいと思っています。

このようなことを踏まえると、先ほども述べたように頼朝って運がいいですね(他にも運がいいエピソードはある気がします)。きっと運が勝てるように動いてくれていたのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう