道長との対立に負けた男!藤原伊周とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!道隆は兼家がいなくなってから出世コースを歩みました。それもそうですね。彼は長男なんですから父親の後継ぎとなるからそうなりますね。それから、道隆は自分の子供達贔屓な政策をしました。その1人でもあるのが藤原伊周です。彼は道隆が生きている時は坊ちゃんをして出世をしていました。周りがこの出世はいいものなのかと思ってしまうくらいの出世だったそうです。ですが、道隆がいなくなってからは権力争いに負けてしまいました。また、勘違いをして火山法皇に被害を加え評価を落としてしまいました。このように、家は良かったものの残念な結果にはなってしまいました。では一体どんな人生だったのか?この記事にて話したいと思います!

藤原伊周のプロフィール

伊周のことは光る君へで知るようになったかと思われます。私は三浦翔平は好きな方なので出てくれて嬉しいですね。このように、光る君へで知られた存在だからこそ、プロフィールから見ていきたいと思います!

 

名前 藤原伊周

生年月日 974年

没年 1010年2月14日

藤原伊周の人生

以上が伊周のプロフィールです。では彼はどのような人生を歩んだのか?

1.生い立ち

伊周は974年に道隆と高階貴子との間に嫡男として生まれました。これはもう名門貴族お坊ちゃんです。そのため、12歳で元服し従五位下に列せられます。また、妹の定子が一条天皇の中宮に選ばれると18歳で参議となります。それから、中納言、内大臣とスピード出世をし20歳で内大臣にまで昇進しました。その当時この出世は叔父の道長を飛び越えていたそうです。そのため、周囲の人からは反感を買ってしまったようです。

2.道隆の死と同時に陰り

坊ちゃん育ちであったものの、道隆が病気になってから陰りが見えます。一応道隆は自分の後任として伊周を押しました。そのため、天皇に奏上する文書を先に見る役目である内覧宣旨を受けます。ですが、その任務は道隆が病の間だけという条件付きになってしまいました。なんでそうなったのか?どうやら道隆による強引な引き上げに不満と不安を抱いていた多くの貴族の存在があったからです。特に一条天皇の生母でもあり道長の姉である詮子は伊周を関白にしないよう天皇に直談判したそうです。こんな状況になった道隆は関白を辞めて伊周にこれを譲ろうとしたものの叶いませんでした。

それから道隆がいなくなってから関白は道兼が継ぐことになるものの道兼は7日目に亡くなったので伊周と道長が対立します。その結果、道長が伊周を越えて右大臣となり氏長者として頭角を現し始めました。もちろん、内覧の権利は道長です。

3.法皇を恋敵と勘違いする?

このように、権力争いで敗れてしまいました。ですが、その時伊周は藤原為光の娘の三の君と交際していたものの周りにバレないように会っていました。それがどうしたって?実は996年に花山法皇(寛和の変で追いやられた人です。)が三の君の屋敷を訪れていると伊周は勘違いをしたことから(花山天皇は四の君の元に訪れていました)弟の隆家と共に待ち伏せをし花山法皇の袖を射抜いてしまいました。さらに、花山法皇の従者である童子を殺してしまいます。この話はもちろん広まりライバルである道長に突かれてしまいました。その結果、弟の隆家は出雲国に左遷されました。一方伊周は禁止されていた呪術を使ったとして大宰府へ左遷されることとなってしまいました。それ以外も伊周兄弟の関係者も次々に連帯責任で処罰が決まりました。ちなみに伊周などの関白家が排斥されたこの一連の出来事は長徳の変といわれます。

4.ずっと太宰府に行ったフリしてました!笑!

伊周が出立するときお母さんの貴子は泣きながら伊周と一緒に行きたいと嘆願しましたが許されなかったためショックのあまり病気となってしまいました。ただ、伊周はまっすぐに大宰府に向かったわけではないです。病気のフリして播磨国に留まっていました。そして、伊周が左遷されて約5カ月後に貴子に会うためにこっそりと京へ帰り、妹の定子の部屋に隠れ住んでいました。しかし、密告によりすぐにバレて捕まってしまい改めて大宰府へと送られてしまいます。

それから997年に一条天皇の母であり伊周の叔母にあたる詮子は大病を患いその回復を願って大赦が発せられました。これにより伊周たちの罪は許され京へ帰ることができました。

5.最期

帰ってきたものの伊周たちへの風当たりは強かったようです。まず定子は999年に皇子を出産するものの同日に一条天皇は長の娘である彰子を迎え入れます。一応1000年に定子は女児を出産しますが産後の肥立ちが悪く出産の翌日に亡くなってしまいました。さらに、1008年に彰子が皇子を産んだことで定子が産んだ皇子を天皇にする計画も危うくなりました。そして、1009年には彰子と皇子への呪詛事件に巻き込まれるなど散々な目にも遭い失意のまま1010年に37歳で亡くなりました。

 

藤原伊周のエピソード

道隆の子供であったものの道長との権力争いで負けたという結末でしたね。こればかりは彼の行動に影響がありますね。ただ、彼にもいいエピソードもあります。ですので、その話もしますね。

1.美男でアイドル扱い

道隆は外見も優れていたそうです。そんな道隆に似たのか伊周も非常に美男だったそうです。なんか女官たちからキャーキャー騒がれるアイドル的な存在。だったそうです。さらに、学識も高く和歌や楽器や舞もうまいという非の打ちどころのない貴公子だったそうです。

2.大人気ない行動をする

見かけはいいものの親の威光の影響で不遜な振る舞いが多かったといいます。例えば、勝手に儀式のやり方を省略したり、大臣でもないのに「大臣にのみ許される席」に勝手に座り込んだりしたそうです。そのため、道長贔屓の歴史物語こと「栄花物語」には伊周は心が幼かったと書かれてしまっています。

3.源氏物語でネタになる

伊周は大宰府に流罪となりました。そこで、紫式部は源氏物語で光源氏が「絶世のイケメンが流罪になった」という描写を入れました。これは伊周のことなのかと言われています。

4.枕草子を書こうとしたきっかけは伊周?

「枕草子」で清少納言は伊周ほどの貴公子はいないと絶賛しています。満開の桜にも劣らぬ美しさだとも言っています。ちなみに「枕草子」あとがきによると清少納言が「枕草子」を書くきっかけをつくったのは伊周だったそうです。詳細としては当時は非常に高価だった紙を伊周が定子に献上しました。その際に同席していた清少納言に定子がその紙に何を書くと尋ねました。清少納言は「枕」と返答したそうです。そしたら定子がその紙を清少納言にあげました。それ故に「枕草子」というタイトルになりました。

5.清少納言が伊周のファッションセンスを評価

枕草子の20段に伊周のファッションセンスの良さが描かれているそうです。なんか伊周のファッションは清少納言にとってはたいそう煌びやかに映っていたようです。しかも、清少納言が伊周のことをお洒落なイケメン貴公子と褒めているのはこの章段だけでないそうです。

まとめ

道隆がいなくなってからは権力を得ることは無理でしたね。やはり道長の方が年上ですから元のコネはあったのかなと。あと日々の行いの影響はあったのかと思いますね。ただ、清少納言に激推しされていたからこそ枕草子の由来になれたのかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。