井伊家のイケメン!井伊直政とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!井伊直弼という人物は知っていますよね?日米修好通商条約で目立っていた人です。あの当時の大老でしたからね。まあ、無断で条約を結んでしまったことから桜田門外の変で殺されてしまいましたけどね。なんでそんな話をしているのかって?実は井伊家が徳川家臣になったのは徳川四天王の1人こと井伊直政が家康の家臣であったからです。「どうする家康」では女装していた人です。あれは現実にあるのかはわかりませんが(あのシーンを批判する人もいましたからね)。ただ、実際に美形だったそうです。では具体的にどういった人だったのか?この記事にて話したいと思います!

井伊直政のプロフィール

美形と言われる直政。一体どんな顔だったのか?そして、どんな人物だったのか?まずはプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 井伊直政

生年月日 1561年3月4日

出身地 近江国

幼名 虎松

別名 井伊の赤鬼、人斬り兵部

没年 1602年3月24日(享年42歳)

備考

直虎ご存知ですよね?真田丸の次の主人公の話。実は直政にとって直虎は叔母なんです。色々あって直虎がおんな城主になっているときに直虎が直政を推薦したことから直政は徳川家臣となりました。その流れのおかげで井伊家は戦国時代の時だけでなく260年間徳川の家臣となりました。

井伊直政の人生

以上が直政のプロフィールです。では、彼はどのような人生を歩んだのか?

1.井伊直政生まれる

直政は1561年に今川家臣の井伊直親の長男として誕生しました。ただ、お父さん井伊直親は小野政直の長男こと小野道好の策略により謀反の疑いをかけられてしまいました。そのため、今川家臣の朝比奈泰友に殺されました。その後は井伊直政の叔母こと井伊直虎と名乗って家督を継ぎました。「おんな城主直虎」はここから来ています。これはもう井伊家は滅亡寸前ですね。

2.家康に仕える

それから6年が経った1574年に井伊家を再興するために話し合いが行われました。その際に直虎は直政を徳川家康の家臣に推薦しました。その際、直政のお母さんは徳川家臣の松平清景と再婚しました。そして、直政を松平清景の養子としました。家康に才能を認められた直政は再び井伊を名乗り家康のもとで井伊家の再興を目指すこととなりました。家康が認めてくれたのは救いですね。

3.井伊の赤備え

直政は高天神城の戦いをはじめとした武田との戦いで武功をあげました。しごできだったんですね。そして、1582年に元服しました。それからある出来事が起きます。それは家康が武田家の支配していた信濃・甲斐を徳川家の支配下に置いた時に旧武田家臣のほとんどを直政に預けたそうです。相当信頼していないといけないような気がします。その際に家康が直政に命じたのは武田軍の兵法を引き継ぐことだったそうです。もちろん、直政は武田四天王の一人でもある山県昌景が身に着けていた朱色の軍装まで引き継ぎました。そのため、「井伊の赤備え」と呼ばれるようになりました。この話はのちほどしたいと思います!

4.箕輪城主となる

1584年の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ちました。この成果のおかげで直政は全国に名をとどろかせました。この波は止まりません。1590年の小田原征伐では北条軍に夜襲をかけて小田原城内に突入しました。そして、1591年の九戸政実の乱では軍の先鋒を務めたことで徳川家臣の中でも真っ先に敵陣に突撃していく切込み隊長として地位を確立することができました。このような成果とを挙げたことで家康が関東に移動した時に直政は上野国箕輪に12万石で封じられました。

5.最期

1598年に秀吉が亡くなると豊臣家臣を徳川家臣に引き入れるために色々動きました。特に黒田官兵衛、黒田長政親子との関係を強めたことで芋づる式のように多くの武将を家康側に引き入れることに成功することができました。黒田官兵衛も大河ドラマの主役となりましたね。

次に1600年の関ヶ原の戦いでは、本多忠勝と共に東軍を指揮しただけでなく全国の諸大名を東軍につけるために色々動きました。また、先陣を切ることが決まっていた福島正則より先に戦闘を開始するなど外交も軍事も活躍していました。ただ、うまく行っていただけではないです。島津軍の柏木源藤の攻撃を受けたことで足に大きな傷を負いました。ですが、その後は戦後処理と江戸幕府の運営に携わりました。

このように、またまた功績を認められた直政は近江国澤山で18万石を与えられました。そして1602年に彦根城築城中に佐和山城で42歳の若さで亡くなりました。佐和山城は元は三成の城でした。

井伊直政に関するエピソード

直政に関するエピソードは色々あります。ですので、今からそこら辺も話しますね!

1.イケメン!

直政がイケメンだったという記録は多くの書物に残っているそうです。「どうする家康」でも美男子って感じがしますよね。具体例を挙げると江戸幕府の公式記録こと「徳川実紀」に「容姿美麗で心優しい」と書かれているそうです。公式の書物に書かれるということは本当でしょうね。まあ、肖像画は見てあれって思う人もいるかもしれませんが昔のイケメンと今のイケメンは違うので割り切るしかないですwwwwwww。

また、書物だけでなくこのようなエピソードもあります。秀吉が家康を懐柔するために秀吉は自分のお母さんと妹の朝日姫を人質に出しました。それで2人の警護を勤めたのが直政でした。もちろん、直政はイケメンだったため秀吉のお母さんや朝日姫だけでなく侍女までが喜んだそうです。しかも、心細い思いをしないようにと、細やかな気配りをするなど行動までイケメンだったそうです。見た目だけでなく行動もイケメンだったんですね。

2.イケメンなのに鬼??

確かに直政 イケメンではあったのは事実です。ですが、鬼であった一面はあったそうです。武田家が滅びた後元武田家の家臣・山県昌景という人がの赤備えを引継いだことから「井伊の赤備え」の異名をとります。なんか赤い装束を身に纏い、勇猛果敢に先陣を切る姿から「井伊の赤鬼」とも言われていたそうです。これは敵からしたら恐ろしいと思うことでしょう。

ただ、鬼だったのは敵にだけではありませんでした。実は直政の軍は厳しいことで有名でした。どうやら厳しすぎて逃げ出す家臣も多く居たそうです。ちなみにもしミスをした部下をすぐに手打ちにしたりしていたそうです。そのため、直政に呼ばれた家臣たちは家族と別れの杯を交わしてから直政の前に参っていたそうです。そんなのパラパラって思うかもしれませんよね?ただ、元はだった武田家の家臣達を従えるには自分にも家臣にも厳しく当たるしかなかったのかなと思われます。

まとめ

正直なこと言っていいですか?イケメンって期待してたら肖像画は普通だから萎えました←。戦国時代と今のイケメンは違うことを思い知らされましたね。そんなもん百も承知だろって?それはそうなんですがあまりに美男子なんて言われているからこそ期待し過ぎちゃいましたねwwwwww。まあ、美男子くだりはここまでにして彼の意外な姿を知ることができました。まずは鬼になることですね。逃げる人もいるとは相当ですよ?あと黒田官兵衛のくだりを見てても外交面も強かったのも意外だなと思いました。このように、顔だけでなく仕事もできるなんてパーフェクトだと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう