家康の異父弟!松平康俊とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!家康には異父兄弟がいました。弟です。基本的にはお母さんが腹違いというのはあるあるです。そりゃ男の方が側室を作りますからね。ですが、家康のお母さんこと於大の方は再婚をしているためお母さんが違うという感じなんです。ちなみに家康の弟の名前は松平廉俊です。「どうする家康」ではなにわ男子の長尾くんが演じていますね。ちなみに、松平廉俊なんですが家康よりも波乱な人生を送ります。なんと今川の人質になった後、武田の人質になりました。ずっと人質生活を送るってしんどいですよ?なんか次男、三男という生まれた順番の違いでこんなに人生が変わるなんて思ってもないことではあると思います!では一体どんな人生だったのか?この記事にて話したいと思います!

松平康俊のプロフィール

家康の弟こと松平廉俊がどんな人なのかがわからない方のいると思います。マイナーですからね。ですので、まずはプロフィールから見ていきましょう!

名前 松平廉俊

生年月日 1152年

出身地 尾張国

没年 1586年5月21日(享年35歳)

 

松平廉俊の人生

以上が松平廉俊のプロフィールです。では彼はどんな人生を歩んだのか?

1.松平廉俊生まれる

1552年に松平康俊は久松俊勝の三男として生まれます。お母さんは先ほども述べたように水野忠政の娘こと於大の方で家康の母でもあります。於大の方家康が3歳の時に松平広忠から離縁されています。そして、後に久松俊勝と再婚して松平康俊を出産しています。於大の方に関してはこちらの記事を見てください!

家康の産みの親!於大の方とはどんな人?

 

となると松平康は家康の異父弟ということになります。あと松平康俊には松平康元という同じ年の兄がいるそうです。そのため双子の可能性があると言われています。それ以外にも松平定勝という弟もいるそうです。於大の方はたくさん産みましたね。

生い立ちはそんな感じです。それで、1560年の桶狭間の戦いを経て家康は駿河国の今川から独立してから於大の方を母として迎えています。その際に松平康俊ら三兄弟は家康の兄弟に準ずるとして松平姓を与え家康の家臣となりました。

2.今川家の人質となる

1560年に桶狭間の戦いで松平康俊は家康の家臣になれたもののある問題がありました。それは家康の正室・築山殿と長男の信康、長女の亀姫を今川家に置いたままでした。これは救出しないといけません。そこで、家康は今川氏真の親戚でもある鵜殿長照、鵜殿氏長、鵜殿氏次の親子3人を人質交換という形で交渉しようとしました。ですが、鵜殿長照は討死したので残りは2人だけです。ですので、鵜殿氏長、鵜殿氏次の2人と異父弟・松平康俊の3人を差し出しました。家康も苦渋の判断でしょうね。

※康俊が今川家でどのような生活を送ったのかは判っていません。でも、徳川家康が今川家を離反したり氏真が松平家臣を次々に処刑したりしたという事実という事実を見ても松平康俊が手厚い待遇を受けたとは思えないです。

3.武田家で人質をなる

松平康俊が今川家を離れることになったのは1568年です。武田信玄が駿河に侵攻した時に今川家臣の三浦与一郎は武田家に寝返りました。その際に三浦与一郎は松平康俊と今川家の人質となっていた酒井忠次の娘おふうを連れていきました。信玄への土産みたいな感じですね。武田と徳川は同盟を組んでたのでワンチャン帰れると思うじゃないですが?ですが、そうはいきませんでした。むしろ、信玄は松平康俊を厳重に警護し監視しました。今川にいる時もしんどいのかなと思います。そして、1569年1月武信玄は同盟を破棄し家康の拠点である遠江を攻撃しました。

4.両足の指を失う

1570年11月に信玄が遠江に本格的に侵攻すると思った家康は甲斐国にスパイを送り松平康俊を甲斐国から脱出させました。その際に松平康俊は甲斐国からを通って、三河国にたどり着きました。ただ下山路は豪雪地帯です。大雪の中を歩き続けた松平康俊は両足の指を凍傷で失ってしまいました。この姿を見た家康は松平康俊に感謝して一文字の刀と当麻の脇差を贈りました。

5.最期

1583年に松平康俊は久能城(静岡市駿河区)の城主となりました。ですが、

松平康俊は大村越前守の娘と結婚して娘を授かったものの、息子を授からなかったんです。となると、跡継ぎがいません。そこで、於大の方は松平康俊の叔父こと水野忠分の五男・松平勝政を松平康俊の娘と結婚させるという形で松平家に婿入りさせました。こんな形で家を続けられることはできましたが1586年に松平康俊は35歳の若さで亡くなりました。松平康俊の死因は判っていません。ただ、三河国に帰って15年以上が経過して亡くなっていることから凍傷とは無関係と言われています。

謎だらけだね

確かに35歳でいなくなったのは事実です。ですが、死因に関してはわからないそうです。でも、いきなりだなとは思います。まだ、何かしらのトラブルがあったみたいは話があれば分かりますよ?ですがその事実もないです。そう考えると色々ん謎だなと思います。まあ、少なくとも言えども、家康は自分の弟がいなくなるというのは悲しい事実だと思います。

まとめ

可哀想な人生でしたね。やっと落ち着いたと思ったら若くして死ぬなんて。あとまさかの武田の人質の時が苦しかったのかなと。監視されていたわけですしね。ワンチャン帰れれば良かったもののそうはいかないなんて何でなんですかね?まあ、それでも少しは報われたのは良かったのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう