有名!日本三大仇討ちについて解説!

どうも、りかちゅうです!日本には三代仇討ちがあるのはご存知かと思います。私的には忠臣蔵が1番有名なのかなと思います。なぜか年末で放送されるのが文化だったこともありますしね。おそらく昔の方がその色は強かったと思います。私が小さい時とかそうでしたからね。ただ、仇討ちに関してはそれだけではないです。鎌倉殿を見ている人ならば曾我兄弟の仇討ちはご存知ですよね?あれは書いていて面白みがありました。また、伊賀上野の仇討ちもあります。ですので、詳しくは解説できませんが今から話したいと思います!

仇討ちとは何か?

まずは仇討ちって何と思う方もいると思います。ですので、仇討ちとは何かについて話しますね!

「仇討ち」です。武家社会を中心とした中世期頃から江戸時代までの慣習でしたが、現代では単なる「仕返し」の意味も含まれています。

仇討ちとは恨みのある相手を討つことです。正式に言えば自分の主君や肉親などを殺した者を討ち取って、恨みを晴らすことですね。これは敵討ちも同じではと思うかれません。ただ、敵討ちは争いに限らず競争や勝負事における相手を広く言います。ですが、仇討ちは仕返しをするべき憎い相手を指しています。そこが違いですね。

仇討ちの歴史とルール

仇討ちの意味はこんな感じです。では、どういう経緯で仇討ちができたのか。そして、どんなルールがあるのか?

歴史

仇討ちは武士が誕生した頃にできたものです。そして、江戸幕府によって法制化した私刑制度です。江戸時代では公の場で処罰しきれなかった加害者を被害者側が仇討ちをすることが認められていました。基本的には許可されていたのは武士階級のみです。ただそうでない身分においても黙認され名誉とする考えもありました。それもあって仇討ちは喧嘩両成敗の思想が大元となりました。また、武士のルールを守ることにもつながりました。ですが、明治6年政府に「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)」が布告されてからは禁止となっています。

ルール

ルールに関してはいくつかあります。まず、
主君に免状をもらい、他の藩をまたいで討つ場合は、奉行所への届け出が必要です。もし、無許可で行ったり役人に認められなかっ殺人罪として罰せられます。次に迎え撃つ側が返り討ちにすることは認められているものの、討たれた側が仇討ちするのは禁止していました。

 

日本三代仇討ちについて

仇討ちの概要に関してはこんな感じです。では、日本の3大仇討ちとはどのことを指すのか?

1.曾我兄弟の仇討ち

初っ端は曾我兄弟の仇討ちです。1193年に起きた仇討ちです。
概要としては曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討ち取った事件です。端緒は、工藤祐経と伊東祐親の所領争いです。工藤祐経は伊東祐親の暗殺を計画しましたが実行できませんでした。その代わりに伊東祐親の嫡男であった河津祐泰を殺します。それで、河津祐泰の妻は後に曾我祐信と再婚しました。ですので、兄弟共に曾我と名乗ります。彼らは困窮した生活を送ります。とは言えども、出世はするんですけどね。一方で工藤祐経は源頼朝に好かれ御家人にまで出世をします。これを理不尽と思った曾我兄弟は1193年5月に源頼朝が富士の裾野で大規模な巻狩りの時に仇討ちました。成功したものの兄は討死。弟は処刑されてしまいました。ただ、頼朝に関してはその仇討ちに感動したそうです。詳しいことはこちらに書かれています!

https://www.rikachu-idea.com/what-sogakyodai-adauchi/

 

2.伊賀上野の仇討ち

1634年の話です。渡辺数馬と荒木又右衛門が渡辺数馬の弟の仇である河合又五郎を討ち果たしました。これらは歌舞伎や舞台の題材になることが多いです。また、鍵屋の辻の決闘とも呼ばれています。ただ、荒木又右衛門の「36人斬り」の件はフィクション説はあります。どういうことかと言いますと実際には誇張されたエピソードであるということです。その後の荒木又右衛門の死が不可解であります。それ故に陰謀説が流れる事件として知られています。

 

 

3.元禄赤穂事件

1702年に起こった仇討ちです。あのみんなが知ってる忠臣蔵です。年末年始の大作ドラマとして使われていますね。

どういう事件かと言いますと浅野内匠頭が儀式の指導役であった吉良上野介を切り付けました。その時にブチ切れたのは徳川綱吉です。ただ、江戸時代に喧嘩両成敗の文化があったのに浅野内匠頭は即日切腹と赤穂藩は取り潰しです。一方で吉良上野介はおとがめなしです。これは理不尽ですよね?そこで、赤穂浪士は吉良上野介を打ち取ることを決めました。実行されたのは1702年12月14日の深夜です。赤穂浪士を率いる大石内蔵助を筆頭にした47人の藩士は、吉良邸に凸り主君の仇討に乗り込みました。結果としては吉良上野介側は45人が死傷。赤穂浪士側は2人が負傷しただけです。ただ、結末としては大石内蔵助以下46名が全員切腹です。

仇討ちが話題になる理由

以上が3大仇討ちの話です。大きい括りでいうと復讐ですね。本来ならば復讐なんてあかんってなると思います。ですが、仇討ちが日本人にとって美徳であり美談として語り継がれてきているため話題にはなるものです。理由はおそらく、自分を犠牲にしてでも忠義を貫き通す姿が儒教の精神と似ていて美しさを感じるのかなと思います。あと、私的には仇討ちする側の立場で見てみるとどこかしら感情移入はするなと思います。曾我兄弟とかは潔いところが感慨深く感じます。それもあって、頼朝は罰する側なのに賞賛したのかなと思います。

まとめ

仇討ちで印象に残ったこととしてはまさかの許可を得ることですね。許可を得たらいいんだと思いました。それくらい美徳とされていたのかもしれませんね。おそらく、復讐であれどする側にも言い分があるから許可を得れば許されるのかなと思っています。また、明治になってから禁止されてしまった時点で日本の文化というものがなくなったのかなとも見受けられます。明治時代の日本は乗っ取られたと言っても過言ではないですからね。このようなことを踏まえても、仇討ちとは日本ならではのものなのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。