和歌将軍!源実朝とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!政治よりも和歌が好きだった将軍がいました。その名も源実朝です。か 彼は金槐和歌集を編纂したり百人一首に載るような和歌を作りました。武士らしさはどこにあるんかいって感じですけどねwwwwwwww。確かに武功という武功は有名ではないですね。それくらい和歌で有名でした。ただ、その実朝も頼家と同じようにお飾り将軍でした。しかも、頼家の次男坊に殺されるという悲劇の将軍でした。源氏は2代目以降はただ利用されて終わってしまったような気しかしません。創設者がいなくなると廃れるとはこういうことですね。では、そんな実朝はどのような人生だったのか?この記事にて話したいと思います!

源実朝のプロフィール

まずは実朝とはどんな人なのかについて話したいと思います!

名前 源実朝

生年月日 1192年9月17日(鎌倉幕府ができた年に生まれました)

出身地 鎌倉

没年 1219年2月13日(バレンタインの前日ですね)

補足

鎌倉幕府の3代目将軍です。頼家を追放してすぐに将軍となりました。ただ、頼家同様またお飾り将軍です。とは言えども、武士で初めて右大臣に就任するなどの実績はありました。結末はご察しください。

源実朝の人生

以上が実朝のプロフィールです。では実朝はどのような人生を歩んだのか?

1.後継争いに巻き込まれる

実朝は1192年に頼朝の次男として生まれました。実朝の幼少期は色々ありました。そのうちの1つが後継者争いです。

頼家は病に倒れてしまいました。助かる見込みがなかったそうです。そこで、後継者を決めないといけなくなりました。その際に頼家は自分の超宇南こと一幡を候補にしていました。長男が継ぐのが王道ですからね。ですが、北条が反対しました。なぜなら、一幡の母親は北条家にとってライバルでもある比企家の人間だからです。比企家は頼家によって比企一族は散々ひいきされてきたからこそ余計に反対したんでしょうね。それ故に北条と比企がバトルしました。それが比企能員の変です。詳しくはこちらを見てください!

お家ごと潰された!比企能員の乱とは何か?

結果は比企家も一幡も滅びました。そして、北条によって頼朝の次男事実朝が後継者になるように事が進みました。これは北条には都合がいいです。なぜなら政子の妹事実衣ちゃんが実朝の乳母だからです。

2.12歳で将軍になる

比企能員の変が終わってから頼家が回復しました。もちろん、一幡がいなくなっていることに激怒し北条を潰そうとしましたが失敗し頼家は殺されました。そして、やっと実朝が3代目将軍となりました。12歳なのに将軍です。若すぎます。ですので、時政が執権として実朝よりも強い権力をもって政治を行い始めます。これが執権政治の始まりです。ただ、時政は色々って1205年に実朝を排除して娘婿の平賀朝雅という人物を将軍にしようと考えます。結果は義時や政子が止めに入り時政は伊豆に追いやられます。これで実朝は実験を握れるわけではないです。次は義時が権力を握ります。ここは頼家と同じですね。

3.渡宋計画

実朝は実験を義時に握られていることから無力さを痛感しました。それ故に現実逃避をしがちになります。和歌に没頭したのもそのせいです。そして1216年に宋への渡航計画をします。そこまでするのと思いますが。きっかけは陳和卿という僧侶との出会いでした。陳和卿とは源平合戦で全勝した東大寺の大仏を再建した人です。なんか初めて出会った時に陳和卿が6年前に夢で見たお告げ同じことを言ったことで実朝は陳和卿を信用したそうです。それくらいならいいですが、実朝は前世の自分がいた宋の医王山に実際に行こうと考え、造船をしろと言います。もちろん義時などは必死に実朝に止めしたが無理でした。結果としては船は動かず宋には行けませんでした。お金の無駄ですね。

4.頼家の息子に暗殺される

このように、実朝が将軍の時は色々ありました。この記事には書ききれないくらいです。実朝が慕っていた義盛もいなくなりましたしね。ですが、1219年に良い話がありました。それは実朝は朝廷から右大臣へ任じられたことです。これは武士として初めてのことでした。きっと上皇様との関わりがあったから得られたんでしょうね。その際に、実朝はお祝いのために源氏の氏神を祀る鶴岡八幡宮に参拝することになります。ですが、ここで悲劇が起こります。なんと、帰り道に大銀杏に隠れていた頼家の次男かと公暁に殺されてしまいます。公暁は乳母父の三浦義村に頼りますが叶うことができず幕府に引き渡されて処刑されます。27歳でいなくなりました。ちなみに実朝には子供がいなかったので3代目で頼朝の血統の源氏は滅びました。

 

和歌将軍な実朝

実朝と言えば和歌です。鎌倉殿でも和歌を作っている一面がありますよね。これは史実にも表れています。ですので、その話もしますね!

1.金槐和歌集の編纂

政治は義時を中心に動いていました。将軍なんてお飾りです。頼朝がいなくなってからその風潮がありますよね。これは実朝にとってはストレスです。そこで、鬱憤を晴らすために実朝は和歌の世界に熱中するようになります。どれくらいかと言うと当時随一の名歌人である藤原定家とも交友があったくらいです。定家から万葉集を貰って歓喜したり、後鳥羽上皇が編纂した新古今和歌集を京から運ばせたりしたそうです。その熱心さから自ら金槐和歌集という和歌集の編纂までしたそうです。これが武士なのと思っちゃいますが事実です。

2.百人一首の和歌に取り入れられる

学校でも習う百人一首に実朝の歌詞があるのと思う方もいるかもしれませんね。マニアじゃなかったら覚えるわけないですし。私もこの記事を書いてから知りました。ちなみにこの和歌だそうです。

世の中は常にもがもな 渚漕ぐ海士の小舟の綱手かなしも

世の中は常に変わらず続いてほしいことだよ。渚で漕ぐ漁師の小舟に付けた綱の先までいとしいよ世の中は常に変わらず続いてほしいことだよという意味があるそうです。解説に関しては長くなるので知りたかったら自分で調べてください。私は和歌とか詳しくないですが百人一首に載るって相当上手いんでしょうね?

無知である一面はあったと思う

これは個人的な意見です。実朝は義時の思い通りにされたくないから上皇様に近づきましたね。もちろん、上皇様も北条が調子に乗っているのが嫌だから乗っかりましたよ。ただ、そのことをしたせいで鎌倉が公家に乗っ取られそうになったのは事実です。そうじゃなかったら実朝が殺されてから承久の乱になりませんからね。要するに、実朝は上皇様の下心を知らないで義時が嫌だからという理由だけで動いているなと思います。自分が利用されると思わなかった理由は分かりませんが。そう考えると、鎌倉殿で義時が実朝のことをよく思わないのも無理ないです。

まとめ

もし公暁が生きていたら後継者は公暁だった可能性はなくもないです。先ほども述べたように実朝は自分の子供はいませんからね?ですが、その公暁までいなくなったら源氏はこれまでです。確かに実衣ちゃんの息子もいますがその子もいずれは殺されます。完全に鎌倉は北条のものですね。このように、源氏目線で見れば衰退ではあるものの、北条目線で見れば盛者です。鎌倉時代とは思ったよりも残酷ですね。心を鬼にしないと上にはなれません。だからこそ、個人的には義時のピークはこれからという意味でより目が離せないとは思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう