江戸の跡継ぎ争い!将軍継嗣問題とは

どうも、りかちゅうです!後継者争いというのはどの歴史にもあるかと思われます。個人的には応仁の乱とかが印象に残りますね。後継者のために10年争っていたからこそ。普通ならそこまで争うなんてことはないです。それで、なんでその話をしているのかと言いますと実は江戸時代も幕末で後継者争いをしているんです。将軍継嗣問題ってやつですね。簡単に言うと14代将軍を誰にするかみたいな争いです。にしても、なんで幕末にそんな争いがあったんだよと思いますよね?ということですこの記事では将軍継嗣問題が起きた理由などについて話したいと思います!

将軍継嗣問題とは

おそらく、日本史の授業でこのネタについては習ったかと思われます。私は記憶にあります。ですが、どんな感じか分からないという方もいるかと思われますのでまずは将軍継嗣問題とはどのような出来事かについてから話しますね。将軍継嗣問題とは、江戸幕府13代将軍徳川家定の跡継ぎを誰にするかで争った出来事です。まあ、事件沙汰まででもないくらいの争いですけどね。実は徳川家定は病弱だったため徳川家定が将軍になった時から跡継ぎはどうするかみたいな感じでした。当時は子供が継ぐみたいなノリがなかったんですよね。だから、焦ってたのもあります。

ならば早めに決めればいいと思いますよね?それはそうなんですが1857年に跡継ぎが決まらないまま徳川家定の病気が悪化してしまいました。それで、譜代大名や有力藩の藩主達が2つのグループに分かれて争ったそうです。これが将軍継嗣問題です。

将軍継嗣問題が起きた経緯

以上が将軍継嗣問題です。まあ、これはあくまで概要です。ですので、どのような経緯でこの出来事が起きたかについても詳しく話しますね。

1.徳川家定の就任

1853年に12代将軍の徳川家慶が死去しましたと同時に跡継ぎとして選ばれていた徳川家定が将軍になりました。篤姫には彼の存在が登場していました。にしても病弱なのになんで選ばれたんだよって思いますよね?それは家慶の子供で唯一生き残っていたの家定だったからです。まあ、こういうのはタイミングってやつですよね。ちなみに徳川家定を補佐したのが老中首座である阿部正弘でした。

2.ペリーの来航とハリス

1853年6月に神奈川県の浦賀沖に黒船に乗ったペリーが来航しました。その際に阿部正弘はペリーに来年に回答をすると約束し退去させました。それで、翌年の1954年に日米和親条約は締結されました。

ただ、日本の開国劇場なそれだけではありません。1856年にアメリカ総領事としてハリスが就任しました。ハリスは日米和親条約の内容に不満でした。理由としては日米和親条約では日本と貿易が出来なかったからです。そこで、ハリスはアメリカに有利な条約結びつけるために強い圧力をかけます。どう圧力をかけたかと言うとその頃清国とイギリスがアヘン戦争をやっていました。戦争の内容はこちらを見てください!

アヘン戦争とは何かと日本への影響

それでハリスはもし逆らったらイギリスもフランスも日本に戦争を仕掛けて日本を乗っ取るかもよ。だから自分から貿易をする条約(通商条約)した方が日本のためみたいな発言をして日米修好通商条約を結ばせました。

3.家定の病状の悪化

家定は正室や薩摩藩出身で京都の近衛家の養女となっていた篤姫など複数の奥さんがいました。ですが、男の子は生まれませんでした。あの時代は男子が生まれないと跡継ぎが作れないんです。まあ、直虎のように例外もあるんですが本当レアです。そして、1857 年家定の病状は急速に悪化しました。そこで、将軍の後継者をすぐに決めなければいけなくなりました。

将軍継嗣問題の発生

このような流れから将軍を決めないといけなくなりましたが、それに関する争いがなかなかめんどかったんです。ではどういう感じだったのか?

1.後継者の条件

まあ、基本的には後継者とは男の子の子供がなるものです。ただ、もしいなかった場合はとある条件さえ当てはまっていれば子供でなくても将軍にはなれます。その条件は将軍家と血のつながりが近い御三家(尾張・紀伊・水戸)か御三卿(田安・一橋・清水)であることです。それで1857年段階で有力とされていたのが紀伊藩主の徳川慶福(12歳)と一橋家当主の一橋慶喜(21歳)でした。

2.2つのグループの対立

先ほど有力な人が2人いると述べましたがそのせいで2つの勢力(南紀派と一橋派)はバトル状態でした。まず南紀派は徳川慶福を推薦するグループでリーダーは譜代大名トップの井伊直弼です。徳川慶福は徳川家定と同じく11代将軍徳川家斉の孫です。それ故に血筋優先で跡継ぎを決めるべきと訴えました。もちろん、多くの譜代大名や幕臣、大奥が支持しました。

一方、一橋派は一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を推薦するグループです。阿部正弘が諸藩に意見を聞いてから発言力を強めた有力藩を中心としたグループです。具体的には水戸藩主徳川斉昭(慶喜の父)や、薩摩藩主の島津斉彬、土佐藩主の山内豊信など経済力や軍事力をつけてきた藩です。彼らはハリスなどに対抗するためには強力な将軍が必要であるから21歳の一橋慶喜を推薦しました。

3.井伊直弼の出世と結末

先ほど述べたようにハリスが日本と貿易したいという要求を受け、通商条約を結ぶことを考えた老中首座の堀田正睦は京都に行き天皇の許可を得ようとしましたが天皇は外国勢力を嫌っていたため許しませんでした。そこで、井伊直弼は老中よりも権威がある大老に就任し、幕府の判断で日米修好通商条約を結びました。

その影響で将軍継嗣問題は一気に南紀派の有利になります。大老は権威のある役職ですからね?それによって1858年に徳川家定の名で跡継ぎを藩主徳川慶福とすることが発表され南紀派が勝利しました。そして、徳川慶福は徳川家茂と改名し14代将軍となりました。

その後の江戸幕府

その後の江戸幕府は争いだらけでしたね。まず安政の大獄と言って一橋派と通商条約に反対していた尊王攘夷派を処刑するなり隠居させるなりと処罰しました。ですが、そのような行為に恨みを持ったため、屋敷から江戸城に登城する途中、尊王攘夷派が井伊直弼を襲撃し討ちました。それが桜田門外の変です。正直な話、大老がテロで暗殺されるのは前代未聞でした。この事件により幕府の力が弱くなっていることが露呈し幕府はどんどん衰えていきました。たとえ260年続いた組織であっても結局は衰えるとはこういうことですね。栄枯盛衰だなと思うこの頃です。

まとめ

私の主観にはなってしまいますが江戸幕府で後継者争いをするなんて珍しいなと思っています。まあ、あったことにはあったとは思いますが将軍継嗣問題くらいに有名ではないかと思われます。それよりも重大な出来事の方が目立ってましたしね。

そこから思うこととしては徳川家って最後の最後に崩れたのかと思われます。もし徳川家定に男の子の息子がいれば変わっていたかもしれません。ただ、もし組織力が強い状態でしたら後継者で争う可能性もたとえ争いがあったとしてもクーデターが起きてしまう可能性も低いです。しかも、大老という職種が殺されるというのはかなり致命的です。会社で言うならば役員が社員に刺されたみたいな感じかと思われます。要するに、それまでなんとか保っていたのは江戸幕府の組織力が相当強かったのかと思われます(家康のおかげですね)。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう