日本初の株式会社!渋沢栄一と商法会所

どうも、りかちゅうです!渋沢栄一がパリから戻ってきた時は幕府は事実上終わっていた感じでした。じゃあ、幕臣として働けないよね?まあ、そうですね。そういうことになりますね。ただ、渋沢栄一はその後も徳川慶喜と一緒にいました。簡単に言えば今でいう静岡にいました。それで、渋沢栄一は徳川慶喜のために尽くしました。内容としてはその当時静岡藩には借金がありました。どれくらいかと言いますと返済するのが困難なレベルです。そこで、渋沢栄一は商法会所を設立し返済する仕組みを作りました。また、設立し成功したことで渋沢栄一は出世していきます。では、商法会所は具体的にはどのようなものなのか?この記事にて話したいと思います!

商法会所とは何か?

商法会所という名前は分かったけど具体的にはどういうものなのか教えろと思うかもしれません。ですので、今から話していきたいと思います。

商法会所とは1869年2月26日に渋沢渋沢栄一の提案によりにより静岡に設立された金融商社です(日本で初めてできた株式会社でもあります)。同年8月に常平倉に改名しました。ちなみに、フランスで学んできた合本組織を取り入れたそうです。また、商法会所を作るにあたって渋沢栄一は「商法会所規則」というルールをたった2日で作ったそうです。2日で作れちゃうなんてなかなかの強者だとは思います。私ならできないですね。

設立した理由

以上が商法会所に関する概要です。でも、なぜ渋沢栄一は設立をしたのかと思いますよね?理由なくして会社なんて作らないし。ですので、設立した理由について話したいと思います!

1.徳川慶喜と共にいることを決意

フランスから帰国さてきた幕府使節は186811月3日に横浜につ着きました。帰国直後の渋沢栄一は、持ち帰った荷物の整理やフランスひ滞在中の経費精算などで色々忙しかったそうです。まあ、そうですよね。しかも、帰って来た時は明治だなんて余計にバタバタすることでしょう。ただ、あてもないのは良くないことではあるため蟄居を命じられた徳川慶喜フランスに滞在していたことを報告することと同時に民間人の1人として徳川慶喜のそばで農業や商業に従事していこうと決意しました。そこで、徳川慶喜のいる静岡に向いました。

2.借金という問題を解決

廃藩置県前の静岡藩には課題がありました。内容としては明治新政府から石高拝借金というものを受領してたそうです。どういうことかと言いますと新政府は太政官札という新紙幣を全国に流通させる手段として5千万両の新紙幣貸付金としてを製造しました。なぜなそら、その当時の金融が逼迫していたからだそうです。ですが、流通がかなり悪かったため諸藩に石高に応じた貸付を行って全国に広めようとしました。

それで、70万石の静岡藩は58万両を受領していました。ですが、藩庁の政費として使われるだけで返済の見込みなんて立っていなかったです。むしろ、できない感じだったかと思われます。そこで、渋沢栄一は栄一は中老職の大久保一翁にフランスで見てきた合本組織(公益を追求するという使命や目的を達成するために、人材と資本を集め事業をすること)を提案しました。内容を簡単に言うと石高拝借金を資本として、静岡藩内で官民合同による殖産興業を進め、そこで得られる利益を返済に充てる感じです。その案は受けいれられました。

どのような会社だったのか?

このような経緯で商法会所は設立されました。ただ、どういうことをしたいたんだよと思いますよね?ですので、そこら辺に関しても話したいと思います!

先ほども述べたように拝借金を資本とし、何かしらの事業をすることで利益を産む感じです。その際に出資するのは商人です。その際に、お茶・養蚕・米などを生産するのに必要なものを買う際に資金として貸し付けることもあれば肥料や製品を買い取るためにも使います。ちなみに出資希望があれば誰でも参加できます。また、出資金も問わなかったそうです。それで、商法会所に利益がでれば、出資者こと商人に配当金が出されます。今でいう株式会社と同じ仕組みです。このような対策をしたことによって政府から借りたお金が減ることはなかったです。むしろそれを元手に利益があがりました。ちなみに、渋沢栄一は頭取となり、配下には藩士だけではなく、藩内の商人たちもいたそうです。

静岡茶は商法会所からできた?

番外編ではありますが興味深い所なので説明します。静岡といえばお茶を生産していることが多いですよね?実はその要因は商会会所が絡んでいます!明治維新直後、幕臣と呼ばれる武士たちは、総勢32000人前後だったそうです。それは記録に残っています。にしても、そんなにいるのかよと思いますよね。ただ、明治になってからみんながみんなして徳川慶喜についていったわけではないですそのうちの13000人が一緒に静岡に移ってきたのです。

まあ、ついてくるのはいいんですが問題点がありました。それはその当時徳川家の石高は70万石ほどでした。これでは少なすぎます。養える家臣は、せいぜい5000人程度です。残りの8000人は自活する必要があります。そこで、農作業などやったことのない幕臣8000人が、静岡藩から借りた山で茶畑を作っていきました。武士が農業やるとか新鮮ですねwwwwwww。ちなみに、お茶は、政府が輸出品として推奨していた特産品の1つだったそうです。それもあってこれらに関わる資金を、商法会所が出資していたそうです。

商会会所以降の渋沢栄一

その後は東京に出向するようにと言われました。理由は役人になって欲しかったそうです、渋沢栄一は一旦断りましたが説得されて役人になりました。その際に色々改革したものの、色々あって辞めました。簡単富国強兵を主張する方面から理不尽な要求をされた感じです。それから第一国立銀行の設立にてがけました(日本で初めてできた銀行です)。第一国立銀行とは今のみずほ銀行です。1872年6月合同資本による銀行運営を勧め、1873年に設立したそうです。まあ、ここら辺に関しては別記事にて話したいと思います!

パリの渡航のおかげでできたこと

おそらく、渋沢栄一が幕臣の時にパリに行っていたのはご存知かと思われます。その際に渋沢栄一はフリューリ=エラールから社債や株式、ヒト・モノ・カネを動かす理論などを学びました。それによって渋沢栄一は商法会所の運営ができたと言っても過言ではありません。となると、もしパリに行かなかったら人生は変わっていたかもしれませんね。また、商会会所ではなく色んな会社を作り上げた資本家としても今後活躍していくことが出来たのもパリ渡航のおかげでもありますね。

※パリ渡航の件に関してはこちらの記事に書かれています!

資本主義を学んだ?渋沢栄一とパリ万博

まとめ

こんな風に渋沢栄一のことをいいように書いています。ですが、本当は闇の人間ではあります。たしかに、渋沢栄一のおかげで見かけ的には列強に占領はされないように見えました。また、借金返済も上手くできました。ただ、本当は渋沢栄一なんてロスチャイルドの手足の1人です。担当は金融です(フリュリ・エラールから金融のことを教えてもらった故に。もちろん、エラールもロスチャイルドの人間です)。ロスチャイルドとは世界を牛耳る富豪でとある組織のとある闇組織の一員です。要は渋沢栄一はロスチャイルドにとっては金の卵を産むニワトリみたいなものです。これはもう闇の人間こと維新の悪人の1人と言ってもいいです。だからこそ、表の顔だけでなく裏の顔も分かった方がいいと思います!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう