小牧・長久手の戦いの男!池田恒興とはどんな人か?

どうも、りかちゅうです!小牧・長久手の戦いという戦は分かるかと思われます。秀吉が天下統一をする前に家康と秀吉が戦った戦ですね。結果としては家康の方が勝ったとは言われています。秀吉の軍を追いやっていましたからね。分かる人はわかるかと思います。ただ、和睦をしてしまったので結果は引き分けとなり秀吉が上の立場になります。それで、その戦で有名な1人がいます。その名は池田恒興です。彼は信長の幼なじみで織田家の家臣でした。そして、本能寺の変で信長がいなくなってから秀吉方に付きました。ですので、小牧・長久手の戦いでは秀吉側で戦っていました。ですが、その戦でいなくなってしまいました。秀吉側ではキーパーソンだったんですけどね。では、一体どのような人なのか?この記事にて話したいと思います!

池田恒興のプロフィール

池田恒興と言ってもどんな人か分からない方もいるのかなと思われます。ですので、まずは簡単はプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 池田恒興

生年月日 1536年

出身地 尾張国

没年 1584年5月18日(享年49歳)

備考

戦国時代から安土・桃山時代の武将です。戦国武将だと思えば良いです。信長とは幼なじみで沢山の戦に参戦しました。そのため、信長の後継ぎを決める会議こと清洲会議に出席した4人の重臣の1人です。

池田恒興の人生

以上が池田恒興のプロフィールです。では池田恒興はどのような人生を歩んだのか?

1.信長に仕える

池田恒興は1536年に尾張にて池田恒利の長男として生まれました。信長とは2歳差です。お父さんの池田恒利は織田家に仕えていました。一方でお母さんの養徳院は織田信長の乳母を務めました。ちなみに、信長は養徳院だけには対抗しなかったそうです。実は信長は授乳中に乳母の乳房を噛み困らせたことで知られていました。ですが、養徳院にだけは手荒なことをしなかったという逸話があります。またお父さんが早死にしたため養徳院は信長のお父さんこと織田信秀の側室となっています。そのため池田恒興と信長は幼い頃から仲が良かったようです。

2.桶狭間の戦いで活躍する

1560年に勃発した桶狭間の戦いで池田恒興はもちろん信長の味方として参加しました。この戦いは分かるかと思いますが今川の方が優勢でした。これは信長からしたら無謀とも言える戦いです。ですが、信長が勝利できたのは池田恒興含む家臣団の団結力が強かったからです。それで、池田恒興は桶狭間の戦いでの功績を得たため1570年には尾張国の犬山城与えられることになりました。また、その後も信長の戦に従軍しました。

3.それ以外の戦でも功績をあげる

池田恒興は美濃攻め、姉川の戦いなど数々の重要な合戦に参戦して武功を上げました。さらに、長島一向一揆のときには信長の長男こと織田信忠のもとで参戦しました。これ以降信長ではなく織田信忠の家臣となります。それ以外にも荒木村重が信長に謀反を起こすと池田恒興は信長の命により有岡城を攻めこんで反乱を鎮圧しました。この功績からそのまま摂津の支配を任せらたり、中国攻めに参加したりするなど織田家に忠義を尽くしました

4.秀吉に仕える

1582年に本能寺の変が起きてから池田恒興は秀吉と合流して十兵衛を滅ぼしました。本能寺の変に関しては茶番劇なのでその場しのぎの可能性もなくもないですけどね。詳しいことはこちらを見てください!

実は茶番だった!本能寺の変の真相とは?

 

その後、信長の後継者会議こと清洲会議にて信長の孫の三法師を推す秀吉と、三男の織田信孝を推す柴田勝家が対立しました。その際に池田恒興は秀吉の提案に賛成したそうです。もちろん、流れとしては三法師が後継者に決定したことから秀吉は権力を持つようになりました。そして、池田恒興は秀吉に仕えるようになり、1583年に起こった賤ケ岳の戦いでは功績を称えられ、美濃国13万石を与えられたそうです。

5.小牧・長久手の戦い

秀吉は勢いをつけるようになりました。それに対して信長の次男こと織田信雄は秀吉に不信感を抱くようになりました。織田家を乗っ取る気かよと思うのは無理ないですからね。そして、織田信雄は秀吉を倒したいと家康に相談したことから1584年に小牧・長久手の戦いが勃発しました。

秀吉に与して参戦していた池田恒興は織田信雄と家康の軍勢を挟み撃ちにする計画、こと岡崎攻略作戦を立てます。その際に秀吉の養子こと豊臣秀次を総大将として進軍します。ですが、家康軍の奇襲により秀次軍は壊滅状態になりました。さらに、池田恒興も嫡男の池田元助や森長可達と共に長久手にて戦死してしまいます。鉄砲て撃たれてしまったそうです。ちなみに撃ったのは永井直勝です。享年49年でした。池田恒興の死に信憑性はあるのか?

死の信憑性

池田恒興小牧・長久手の戦いで永井直勝の槍で討ち取られたことは史実にあります。また、嫡男の池田元助らも一緒に討たれているためその信憑性は高いと言えます。
それ以外も1594年に池田輝政が家康の次女・督姫と結婚した時に永井直勝から池田恒興を長久手の戦いで討った時の話を直接聞いているため池田恒興の死に偽りがないです。

池田恒興の性格

性格は目立たないところで頑張っている人だったそうです。はじめは信長と一緒に育った立場でした。ですが、信長には優秀な家臣がたくさんいました。そのためキャリア面では目立ちませんでした。それでも腐らずに励み続けていました。どうやら実直な人柄で任されたことに全力で取り組んでいたそうです。また、周りに負けないと積極的に名乗りをあげる功名心もあります。そのため、信長は小身でも頑張っていると評価していました。

この気力は汚れ仕事にも現れていました。織田家の後継者争いの際に信長は弟の織田信行を殺しました。まあ、殺したふりをしただけなんですけどね。ただ、その時に実行した池田恒興は実行したメンバーの1人だったそうです。汚れ仕事も懸命にやるのはすごいですね。ただ、負けん気が強すぎて前線が崩壊した状態でも退かずに戦闘を続行してしまう無鉄砲なところがあります。自制心がきかなくなる所もあるんですね。

まとめ

秀吉にとっては打撃だったのかなと思われます。なぜならば、池田恒興は秀吉軍にとってはメインの人物だったからです。それなのにいなくなるとはその後の戦況はピンチでしょうね。実際に家康の方が有利でしたからね。ただ、撃たれても有名になるということは彼はキーパーソンであったのは事実なのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう