お飾りで終わった…。源頼家とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!タイトルが失礼すぎるって?いや、本当のことじゃないですか?お飾りだったというのは事実ですし。でも、なんでお飾りとなったのか?それは北条がとある下心があったからです。それは北条が1番になることです。この夢を叶えるためにはどうしたらいいか?源氏を潰すしかないです。それ故に夢を叶える過程として若かった頼家をお飾り将軍にしました。そして、色々あって幽閉にしました。これは犠牲者ですね。では、北条の犠牲者こと頼家はどんな人か?この記事にて話したいと思います!

源頼家のプロフィール

まずは安定ではありますが源頼家のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 源頼家←幼名は万寿です。

生年月日 1182年9月11日

出身地 鎌倉比企谷第(神奈川の鎌倉です)

没年 1204年8月14日(享年21歳)

備考

鎌倉幕府の2代目将軍です。頼朝の息子です。私的には失礼ですがお飾り将軍で終わってしまったのかなと思っています。こればかりは若かったからそうなっちゃうのもしょうがないです。頼朝がもっと生きていればそんなことにならなかったはずです。

源頼家の人生

以上が頼家のプロフィールです。では、頼家はどんな人生を歩んでいったか?

1.頼家生まれる

1182年に頼家が生まれました。この事実は多くの人々を喜ばせました。なぜなら、今まで女の子しか生まれず後継がいなかったからです。それもあむて、幕府は祝福ムードだったそうです。私的には頼朝が1番嬉しかったと思います。これで後継ができたんですから。あの時代後継がいるかいないかは命取りです。

2.富士の巻狩り

御曹司の頼家は恵まれた環境で育っていきました。幼い頃から体を動かすのが得意で狩遊びや武芸が得意だったそうです。それもあって、1193年5月に「富士の巻狩り」という大規模な狩が行われた時に、まだ12歳だった頼家が鹿を射止めたことが記録として残されています。

※鎌倉殿では全然できない感じでしたね。泰時の方が上手かったため拗ねていましたし。

3.2代目将軍となる

1199年に頼朝がいなくなりました。となると、2代目は嫡男の頼家です。その当時18歳だったそうです。そして、1202年には、朝廷から征夷大将軍に任命されました。頼家は御家人の上に君臨する態度を取っていました。ですが、うまくは行きませんでした。頼朝が鎌倉幕府を治めることができたのは政治スキルと圧倒的人望があったからです。一方、頼家には2つとも欠けています。それ故に、御家人達も自分よりも若い頼家が上から目線で言ってくることに強い不満を持つようになります。また、朝廷内では頼朝は亡くなったチャンスを狙って鎌倉幕府に反対する勢力が動き始めます。これではツムツムですね。

4.13人の合議制を作る

このままでは鎌倉幕府は崩壊します。そこで、頼家の側近達は幕府崩壊を防ぐため13人の合議制と呼ばれる新しい政治システムを作り上げました。13人の合議制とは簡単に言うと有力な13人の御家人が話し合って政を行おうという仕組みです。そうすることで、御家人たちの鎌倉幕府離れを防ごうとする狙いがありました。詳しいことはこちらを見てください!

おかげで鎌倉幕府の崩壊は阻止できました。ですが、13人の合議制を採用した結果、頼家の発言力が減ってしまいました。お飾り将軍です。

5.比企能員の変

1203年比企と北条の争いが表面化しました。まず、1203年7月に頼家が病に倒れ、8月には危篤状態に陥ります。このチャンスを狙ったのが北条家です。まず、頼家にすら相談せずに頼家が亡くなった場合の遺産相続の話を勝手に決めてしまいます。内容としては頼家の息子こと一幡は28国を治める地頭に。一方頼家の弟こと千幅は38国を治める地頭になるということです。要するに、分割相続です。

この事実を知った比企能員は激怒しました。そこで、頼家に北条を潰すという話を提案し決行しようとしました。一幡は比企が育てるだけでなく、頼家の子でもありますからそこで結ぶのは無理ないですね。だからって、北条は舐めてはいけません。なんと、政子が盗み聞きしてました。もちろん、政子は時政と相談し比企を返り討ちをしようという計画を立てました。結果は北条の勝ちです。比企は家ごと潰されました。詳しいことはこちらを見てください!

お家ごと潰された!比企能員の乱とは何か?

6.幽閉されて終わる

奇跡的に頼家は危篤であったものの、生き返りました。となると比企能員の乱があったことを知ります。頼家はブチ切れます。御家人たちに北条氏を討ち取るよう命令します。ですが、もう北条の力が強いので誰も頼家に味方するものはいないです。もうツムツムです。結末としては政子の手によって強制的に出家しました。政子も自分の息子をそんな風にするとかなかなかですね。そして、伊豆の修善寺幽閉された後、1204年7月頼家は幽閉先で謎の死を遂げました。満21歳という若さでいなくなりました。これも北条の策略かもしれませんね。

本当にポンコツなの?

頼家はポンコツだという噂は聞きます。吾妻鏡でポンコツと言われているからそう言われているのかもしれません。ただ、実際は分からないです。鎌倉殿では察しの良さは敏感な一面もあるため本当のポンコツではなかったかと思われます。ただ、頼朝のように政治センスはないと思います。そこら辺は坊ちゃん育ちだから身につきにくいのかもしれません。やはり、成り上がりの将軍なるも落ちぶれますね。北条だって泰時がいなくなってからは落ちぶれましたから!

源氏のことはそれほど

これは北条家目線です。北条家って結局自分の家を強くしたいという気持ちで源氏を利用しようとしたんだと思います。それは源平合戦の時からです。まず平家を倒さないと自分達は権力を持てません。そこで、平家と戦う相手こと源氏に支援をし、みんなで平家を倒したんだと思います。ただ、頼朝は立てておかないといけないです。そこで、頼朝がいなくなってから源氏を潰し北条家を栄えようとしたのかと思われます。そうじゃないと頼朝の死後北条がここまでギラギラしません。鎌倉殿見てる人ならばどういうことが分かります。

※比企もそのパターンかと思われますが北条に負けてしまったので割愛いたします。でも、似たような感じです。

頼朝の死の謎

源氏のことはそれほどの続きです。頼朝は落馬していなくなったと言われています。ただ、その落馬って誰かに仕組まれていてもおかしくないのかなと。なんでそう言えるのか?頼家が完全に成長しきった時に後継がになったら潰す隙がなくなるからです。頼家自身で仕切れますからね。ですが、子供だったりまだ誰かの力がないとやってけなかったりする歳ならば乗っ取れます。そこで頼家が完全に成長する前に頼朝を事故という形で殺したのかなと思われます。あくまで私の憶測ですけどね。真実はタイムスリップして確認するしかないです←。

まとめ

源氏は頼朝以降はゴダゴダ劇場です。頼家も実朝もお飾り将軍です。せっかく源平合戦で勝ったのにそれ以降はそこまで栄えませんでしたね。これはどんな時代もそんなもんです。立ち上げた人がいなくなったらそれまでです。そして、周りの人達はそれを知っています。それ故に狙える時に狙います。それが北条です。要するに、頼家は100%ポンコツではないですが苦労知らずでもあるため爪が甘かったということです。その後もグダグダとならばそうですよね。そう考えると源氏は利用されただけされて終わった家だと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう