信長に負けてしまった!今川義元とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!信長に負けてしまった人物といえば誰でしょうか?それは今川義元です。これの何が衝撃かと言いますと予想外の展開になったことです。今川家といえばその当時勢力のある家でした。桶狭間の戦いのときだって圧倒的に兵力がありましたからね?それなのに信長が勝ってしまいました。それもあって、今川義元といえば信長に負けた人という印象があるのは事実です。私もそのように思っていました。ですが、本当はそれだけではないです。信長に負けてしまったものの、強い武将ではあります。それは戦国時代ヲタクじゃないと分からない領域の話です。ですので、この記事にて話したいと思います!

今川義元のプロフィール

まずは今川義元とはどういう人かを分かるためにも簡単なプロフィールから見ていきたいと思います!

 

 

 

 

 

 

 

名前 今川義元

出身地 駿河国(今でいう静岡県静岡市)

生年月日 1519年

死亡年月日:1560年6月12日(享年41歳)

備考

桶狭間の戦いで信長に負けた人です。何度も言うなって。もちろん、他にもありますよ。実は多数の強国を味方に付けるというスペックのある方です。また、「海道一の弓取り」と称される武将です。このような能力があったからこそ駿河・遠江三河・尾張の一部と広大に領土を広げた人でもあります。

今川義元の人生

以上が今川義元のプロフィールです!では、彼はどのような人生を歩んだのか?

1.僧侶として生きた幼少期

1519年に今川義元は今川家の五男として生まれました!として生まれた義元はそもそも当主になる予定がなく、4歳のころ、富士郡にある善得寺に預けられ、幼少より僧侶を目指して修行に励みます。

名を幼名の芳菊丸から栴岳承芳に改め、京都の建仁寺や妙心寺などでも暮らしていました。

このとき義元の世話をした太原雪斎は、のちに今川家の家臣となり、義元を生涯支えていくことになります。

ちなみに雪斎は秀才で通っており、このころには義元の父・氏親から何度も今川家に来るよう誘われていたとのこと。

彼に育てられたことも、義元が海道一の弓取りと呼ばれるほどの大名になった要因といえます。

このあと義元が17歳のころ、長兄の氏輝次兄の彦五郎が相次いで亡くなったことで、義元に今川家当主の座が回ってきます。

このとき異母兄の玄広恵深との家督争いを制したのも雪斎の活躍によるものでした。

太原雪斎…キーパーソンですね。

2.同盟に力をいれる!

父の氏親や兄の氏輝の代では、今川家は甲斐(山梨)の武田家と対立していましたが、義元が家督を継ぐと、まずこの関係の改善を試みます。

武田信虎の娘・定恵院と政略結婚し、武田家と甲駿同盟を結ぶのです。

しかしそもそも今川家は相模国(神奈川)の北条家と手を組んで武田と争っていたため、今回の同盟に北条家当主の北条氏綱が激怒

これによって1537~1545年まで、約9年にも渡って両国は小競り合いをすることに…これを「河東の乱」といいます。

河東は読んで字のごとく富士川から東の領土を意味し、怒った北条家が駿河のその領土を占領してしまったのです。

この河東の乱に関しても義元は上杉家が北条家と敵対していることを利用し、上杉と同盟を結ぶことで勝利をたぐりよせています。

周囲と同盟を結んでうまく立ち回っていくことが、義元流の外交だったのですね。

ちなみにこのころ時期を同じくして、三河(愛知県豊川市)の侵攻をめぐって織田家と幾度も争っています。

人質にしようとしていた松平竹千代(のちの徳川家康)を織田家に横取りされたり、

かと思えば小豆坂の戦いでは織田家を下したり…

やったやられたの繰り返しで、両家は確執を深めていったのです。

3.幕府に喧嘩を売る

このように、今川義元は領地を拡大していきました。きっと信長が表に出る前は今川義元が強かったのかなと思われます。それ故に今川義元は大胆なことをします。どんなことをしたんだよって?実は1553年に今川義元は幕府が定めていた法律を廃止しました。また、自身が守護大名ではなく戦国大名であることを宣言します。幕府の犬ではなく自分の領地なんだって感じですかね?まあ、あの時の足利家はポンコツですからそのようになるのも無理ないです。それなのに地味に幕府が続いていたのがすごいなと思いますが…。まあ、そんなことはさておき、翌年の1554年には北条家の娘こと早川殿を嫡男の今川氏真の嫁に迎え、武田・北条との甲相駿三国同盟を締結しました。

4.桶狭間で負ける

今川義元にとってどうしても潰したいのは信長でした。まあ、今川義元からしたら信長はうざいと思うでしょうね。信長は将軍のところに訪問するなど目立つような行動をしていました。小さい領地しかない織田家が何をやっているんだと思ったんでしょうね。また、言い方は悪くなってしまいますが尾張の領地を乗っ取ってはいません。それ故に必死でした。そこで、桶狭間の戦いが起きました。ですが、信長の戦略に対抗することはできず討たれてしまいました。これは今川義元に関しては予想外のことだったんでしょうね。ちなみに、桶狭間の戦いの時に家康が信長に情報を流してきたそうです。まあ、話すと長くなるので詳しいことに関してはこちらの記事を見てください!

信長の転機!桶狭間の戦いとは何か?

今川義元のエピソード

今川義元は本当は強い武将でした。そうじゃなきゃあんなに勢力を大きくすることはできませんからね?では、具体的にどのようなエピソードがあるのか?

1.海道一の弓取り

ここで言う海道とは東海道を指し、弓取りとは武士という意味です。

義元は情勢を見極め、戦略をたて数々の戦を勝ち進みました。

特に軍事力は寄親・寄子制度を取り軍事改革を行ない、圧倒的な数を誇る大軍を動員でき、また、要所で同盟を組むなど外交力にも優れていました(幼少期に学んだ太源雪斎を軍略家においたことにより、雪斎の策略とも言われていますが……)。

このように「海道一の弓取り」と異名をもった義元は、凄腕の戦国武将として恐れられていました。

2.政に強い!

父・氏親が定めた分国法「今川仮名目録」を改定し、追加法を制定していますが、これにより従来、室町幕府が管理していた土地を自分で管理できるようにしました。

また、金山の開発や、東海道を利用し物流を発展させ経済力をつけました。

3.見かけは軟弱?

もともと義元は、足利一門の名家の出で、母親が貴族出身であったこともあり、幼少のころより公家の文化に触れ、好んでいたとされています。

そのため、白塗りで化粧をし、お歯黒をつけ、置眉という公家の格好をしていました。

しかし、当時、公家風の衣装は教養が高く、格式高い家系であることを象徴するもので、ほかの武将も同じように公家の格好を好んでしていた人もいたそうです。

まとめ

日本史の教科書しか読んでない人からしたら今川義元は信長に負けた人ってくらいにしか思っていないでしょうね。私もそんなもんでした。ですが、実際はそれだけではありません。領地を広げるために外交面に力を入れるなどの努力をしていました。それだからお父さん時代に解決しなかったことを解決することが出来たわけですしね。このように、実際はポンコツではありませんでした。もし桶狭間で負けてなかったら違う評価だったかもしれませんね。まあ、とにかくこの記事を通して今川義元の裏の姿を知ってもらえたらいいなと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう