大河ドラマの主役!北条義時とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!2022年の大河ドラマの主人公は北条義時ですね。なんか、平安末期ら鎌倉時代が舞台になるのは珍しいなと思っています。大河ドラマは戦国時代や幕末が多いですからね。そして、私的には三谷幸喜が脚本と監督なのが嬉しいです。なぜなら、真田丸の監督が三谷幸喜で面白かったからです。この一年が楽しみでしかないです(個人的には青天を衝けがつまらなかったので)。まあ、私の感想などはさておき、大河ドラマの主人公がどんな人であるのかをきちんと知った方が大河ドラマの内容を楽しめるかと思われます。ですので、この記事にて北条義時とはどんな人かについて話したいと思います!

北条義時のプロフィール

安定ではありますがまずは北条義時のプロフィールから見ていきましょう!

 

名前 北条義時

出身地 伊豆国←今でいう静岡県

生年月日 1163年←誕生日の不明です

没年 1224年7月1日

平安末期から鎌倉時代初期の武士です。鎌倉幕府の二代目執権です。

北条義時の人生

プロフィールとしてはこんな感じですかね?昔の人なので好きな食べ物などは見つけることは出来ませんでした。さて、北条義時はどのような人生を歩んだのか?

1.北条時政の子として生まれる

北条義時は1163年に鎌倉幕府の初代執権・北条時政の次男として生まれました。ちなみに、北条義時のお姉さんは頼朝の妻こと北条政子です。それ故に1180年に北条時政ととお兄さんの北条宗時とともに頼朝の挙兵に従います。平家との戦いですね。この戦いで兄は戦死しました。ですが、北条義時はなんとか脱出しました。そして、甲斐源氏を味方に引き入れ甲斐源氏との連携を成功させました。

そして、1185年には源範頼の平氏追討軍に属して武功を立てたり、その後の奥州合戦にも参加したりしました。このような実績から1190年の頼朝上洛の時には随兵7人に選ばれたそうです。ちなみに、義時は頼朝の戦略を参考にしていたそうです。

2.執権としての地位を確立

1199年に頼朝が急死しました。それで、嫡男の源頼家が2代将軍に就任しました。ただ、18歳で家督を継いだ頼家は独裁的でした。そこで、これを阻止しようと北条氏ら有力御家人による「十三人の合議制」を開始しました。もちろん北条義時はこれに加わったことで徐々に力を強めていきました。そして、1203年に源頼家が病気になると北条時政は頼家の舅・比企能員を謀殺して比企氏を滅亡に追い込みました。そして、頼家の将軍の地位を撤廃し、伊豆国修善寺へと追放しました。

なんでそんなことをしたのか?それは当時12歳だった頼家の弟こと源実朝を3代目将軍にしたかったからです。もちろん、実朝は幼い子であるため北条家が政所別当に就いて幕府の実権を握りました。ちなみに、1204年7月には頼家が死去しますが北条義時の手勢により暗殺されたという説があります。

3.お父さんを追放する

北条義時はお父さんと共に有力御家人たちを排除していきました。ですが、段々と対立するようになります。なんと、1205年北条政子とともに時政を伊豆国に追放した北条義時は父に代わって政所別当に就任しました。まさかの展開だはありますが…。それで、表向きは北条政子と源実朝を立てながら、色々な家と連携し最高責任者として実権を握りました。もちろん、周りからは多くの反発を招きましたが、柔軟に対応したことで敵対する有力御家人たちを抑圧していきます。また1213年には侍所別当の和田義盛を滅ぼし幕府の要職を独占したそうです。

4.実朝を暗殺する

1219年に3代目将軍の実朝が暗殺されるという事件が起こります。これにより源氏の正統は断絶し大騒動となりました。幕府は新たな将軍として皇族の親王を迎えようとしました。ですが、後鳥羽上皇の拒否により交渉が決裂。そのため、頼朝の遠い縁戚の藤原頼経を4代将軍として迎えました。ただ、生後1年ほどの乳幼児だったことから北条政子が尼将軍としてその地位を代行し、義時が補佐することで執権政治を確立させました。

5.承久の乱で朝廷とバトル

北条義時と後鳥羽上皇は後継問題の影響で関係が悪化しました。なんと、朝廷の復権を目指す後鳥羽上皇は諸国から兵を集め倒幕を目指して挙兵しました。さらに北条義時追討の宣旨を全国に発布したたことから各国の守護人や地頭たちが集まりました。これは北条義時にとってはツムツムです。そこで、北条政子は源頼朝以来の恩顧を訴えて御家人たちを団結させます。また、北条義時は嫡男・泰時を総大将にしました。このような積極作戦のおかげで幕府軍は総勢19万人の大軍となりました。そして、わずか1ヶ月で勝利しました。

もちろん、後鳥羽上皇は隠岐島に流されました。そして、この勝利を機に北条家の実権が確実となりました。

6.なぜか急死

1224年北条義時は62歳で急死しました。死因は脚気とされています。ですが、後妻の関係者に毒殺されたとする説や、そばに仕える者に刺殺されたという説など色々な説があります。それで、お墓は静岡県にある臨済宗建長寺派の北條寺にあるそうです。

北条義時の性格

なかなかなことして権力を得ましたね。それで、北条義時はどんな性格だったのか?

1.源頼朝のタレコミ

源頼朝は北条義時のことをこのように言っていました。

「他日必ず子孫の補佐たらん」「義時を持って家臣の最となす」

意味は「いつか必ず私の子孫の補佐になるであろう」だそうです。北条義時は源頼朝から厚い信頼を得ていたのかもしれませんね。

2.鋭い性格

権力のために悪さはしていたものの、鋭い性格ではあったそうです。なんと北条義時は常に「勝ち馬」を当てています。源氏と平氏の争いの際は、不利だと思われていた源氏なのに源氏につきました。また、鎌倉幕府内に権力争いがあったときは強い側に付きました。
それ以外にも父親が実朝を殺害しようとしたときは父親を排除しています。このように、強い方を選べはからこそ地位を確立していったのかと思われます。冷静な判断力と選んだ側を必ず「勝ち馬」にすることができる実力が備わっていると言っても過言ではないですね。

 

悪評ではあったけど…

まあ、悪人故に悪評はあるちゃありますね。ネットで調べればすぐに出てきます。だって主人に当たる頼家を幽閉したり陰謀で多くの人間を陥れたり父親を失脚させたりしていますからね。しかも、江戸時代は主君を大切にすることを重んじていた時代であったため義時は暴君や謀略家として描かれています。また、明治時代は皇室が絶対みたいな考えがあったことから逆臣とまで言われていました。このように、評価はいいものではないです。とは言えども、執権政治を確立させたという実績は北条家にとってはすごいと思わせるものではあると思います。あくまで北条家目線ではありますけどね。

まとめ

なかなかの悪はあったのは分かります。私的にはお父さんを追放するなんてびっくりしました。まさかの北条政子まで絡んでいるとは思ってもなかったですが。たしかに、権力争いの影響もありますが共に戦ってきた仲だからこそ驚きです。ただ、それくらいのことをしたからこそ権力を得たのかなとも思われます。あの時代なんて権力争いが当たり前でしたからね。また、自分の選んだ方を勝ちにする能力はすごいとは思います。洞察力と直感力の神かよと思います。それだからこそ、北条義時から学べる点は色々あると思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう