義仲の最期!宇治川の戦いと粟津の戦い

どうも、りかちゅうです!源氏の中のイケメンこと義仲の最期はご存知ですか?まあ、歴史マニアな人ならば分かっているかと思われます。あの宇治川の戦いと粟津の戦いにてボロ負け最期を迎えました。それまでは調子も良く人気者でした。それなのに、色々やらかして短い人生となりました。わずか31歳です。義経含め源氏のイケメンは短命で終わっちゃうんですかね?まあ、そんなボケはさて置き、宇治川の戦いと粟津の戦いはどんな戦だったのか?今から話したいと思います!

宇治川の戦いとは?

宇治川の戦いについて分からない方もいるかと思われます。ですので、まずは宇治川の戦いについて軽く話しますね!詳細は後ほど話します。宇治川の戦いとは1184年に起こった木曽義仲と源義経との間で起こった戦いです。きっかけを簡単に言えば義仲は後白河法皇と対立してしまったことから後白河法皇が頼朝に義仲追討の依頼をしました。そして、義仲は不利な状態になったことで京都を手に入れ実質的な天下人だったのにもかかわらず負けた事によって義仲は失脚しました。そして、粟津の戦いにて討ち死にする結果となってしまいました。義仲の人気歯あったものの最期は悲劇となってしまいましたね。

宇治川の戦いの流れ

以上が宇治川の戦いについてです。では、宇治川の戦いが始まるまでどのような経緯があったのか?

1.義仲の上洛

1183年、木曽義仲は以仁王の手紙を元に挙兵をしました。その際に拠点地だった信濃から北陸道を通り京都に向かっていたそうです。この動きは平家からしたらピンチです。もちろん、この動きを止めようとしました。それで、平家と義仲の軍は富山と石川の県境にてぶつかり戦いとなりました。それが倶利伽羅峠の戦いです。倶利伽羅峠で起こったからその名前になりました。

結果は義仲の勝ちです。義仲は家臣による奇襲攻撃や山岳戦で圧勝しました。このような形で平家を潰し6月には破竹の勢いで比叡山に陣を構えるまでとなりました。一方、平家は安徳天皇と三種の神器を持ち出して京都から脱出しました。それと同時に、義仲はそれに入れ替わるかのように京都に上洛しました。

2.義仲のピンチ

ただ、そんな義仲はおごり高ぶるようになり評価は落ちていくことになります。義仲は田舎者なので京の文化なんて知らないから余計にそうです。特に朝廷に対する対応でやらかしました。平家の時代は天皇を擁立し、平家は支配者として君臨していました。ですが、義仲は先ほども述べたように田舎者ですから朝廷に対する対応には慣れていません。そのため朝庭に干されました。きっと自分が偉いみたいになっていたはずです。さらに、9月には頼朝がが上洛する噂が流れ頼朝の噂だらけになってしまいます。頼朝の生まれは京です。それ故に色々知っています。また、饑饉の支援をしたため頼朝の株が上がりました。

3.法善寺合戦

そんな義仲はどんどん焦っていくようになります。しかも、飢饉のせいで義仲軍の兵士たちによる略奪が横行しました。もうこれでは朝廷だけではなく民衆からも干されました。それ以外にも後白河法皇は寿永二年十月宣旨を発令したことで頼朝は朝敵認定を取り消しされました。そんなピンチから義仲は大暴挙をしてしまいます。それは当時院政を行って朝廷のトップだった後白河法皇を脅し幽閉したことです。きっと幽閉することで朝廷を意のままに操れるようになると思ったのでしょう。ですが、前代未聞だし逆効果となりました。

 

ちなみにこの幽閉のことを法善寺合戦といいます。しかも、幽閉しただけでなく自称征夷大将軍に就任し、頼朝の追討命令を無理矢理しました。でも、この横暴な振る舞いによって義仲はもっと干されました。また、離脱兵も続出してしまい劣勢になってしまいました。

4.戦いの始まり

法皇を幽閉してある程度の権威を保った義仲でしたがもうツムツムです。そして、頼朝にとってはチャンスとなりました。もちろん、頼朝はこのチャンスを逃すことなく義経と源範頼の大軍を京都に派遣しました。義仲はなんとかして京都から脱出し帰らないといけません。まず、平家に交渉してもむりでした。そして、比叡山延暦寺のトップまで殺したので北陸道を通るのであれば必ず通過しなければならない比叡山を通れませんでした。もう逃げられません。義仲はなんとか付き添ってくれた1000人の兵士とともに戦うことになりました。

宇治川の戦いの全容

宇治川の戦いが起こる経緯はこんな感じです。では、どういう戦いだったのか?

1.比叡山と宇治川

義仲はもう義経の軍に対応しなければならななくなってしまいました。それで、その当時、京には2つの防衛ラインが存在していました。それ比叡山と宇治川です。比叡山さ当たり前ですが山です。しかも、平安京を守護している重要な拠点の1つなんです。ただ、先ほども述べたようにやらかしているため義仲はここを使うことはできません。そこで2つ目の防衛ラインである宇治川が活躍する事になると思いますよね?でも、そんなことくらい義経もよく分かっています。それ故に義経は軍を2つにわかれて義仲軍を包囲する形に打って出ます。義仲軍兵力はほぼないためはこの戦いは出来レース戦争となってしまいました。

2.先陣の話

宇治川の戦いの戦いといえば佐々木高綱と梶原景季による先陣争いです。先陣争いとは一番槍を上げることです。もちろん、武士としては名誉ある行為でした。ただ、佐々木高綱と梶原景季の間には馬を巡るちょっとしたトラブルもあったため両者の仲はあまり良くありませんでした。

 

そして始まった宇治川の戦い。この戦いにおける先陣は宇治川を渡りきることでしたため、両者とも宇治川に入りなんとか泳ぎ切る事に必死でした。そんな中、佐々木高綱は梶原景季に対して帯が少し緩んでいるから直したと言いました。その発言は嘘です。その隙に佐々木高綱が一気に宇治川を渡りきり見事に先陣を奪い取りました。そんなことをやっていたら義経優勢となり圧勝しました。

粟津の戦いにて討ち死

宇治川の戦いの後、義仲は最後の賭けとして後白河法皇を拉致しようとしましたがしっぱいしました。そして、自分の故郷に退却します。その後、義経によって保護された後白河法皇は正式に義仲追討を命令しました。またまた、大軍をもって義仲を追撃します。どうすることもできなくなった義仲は近江の粟津という場所で自害しようとします。ですがらその時に放たれた矢が義仲の額に命中したため義仲は討ち死です。また、義仲軍の今井兼平始め有力な武将もいなくなり、義仲の戦いは終わりを迎えました。1184年1月の話です。

頼朝の御家人はどう思っていたのか?

源氏の戦いですし嫌がっていた人もいると思います。鎌倉殿でもそういった描写はありますしね。やはり、源氏同士のバトルなんて嫌なのは当然です。また、義仲の息子と大姫は恋愛関係(後ほど結婚した)にあったものの、息子も殺されたためその恋愛は悲しい形で終わってしまいました。そして、大姫はかなりのショックだったためこの騒動の後に亡くなってしまいました。20歳くらいだったそうです(すぐになくなったわけではないです。その後色々あってなくなりました)。私的にはこの悲劇の方に目がいってしまいます。

まとめ

義仲に足りなかったものは京でのマナーだと思います。マナーがあればもっと朝廷と上手くやれていたはずです。私は郷に入っては郷に従えということわざは嫌いですがある程度弁えていないと義仲みたいな結末になるんだなと思います。まあ、義仲は田舎育ちですし京の情報が入りにくいのは分かります。いや、性格的にもし情報が入っていたとしても義仲が京のマナーを忠実に守るかは読めないですけどね。要するに、情報があるかないかで勝敗が決まるんだなと思える死だなということです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう