美濃のマムシ!斎藤道三の人生!

どうも、りかちゅうです。信長の義理のお父さんってご存知ですか?なんなんだその質問はと。マニアックすぎて申し訳ございません。今回は信長の義理のお父さんについて話したくて。その名は斎藤道三。おそらく、歴史好きな方なら一度は名前を聞いたことがある。いや、その方についてなら詳しく知ってるぞという人もいるかと思われます。そりゃ歴ヲタ界隈では有名ですからね。ただ教科書にはなかなか載るなんてことがない人材ですからどのような人か分からない方もいるかと思われます。ということでこのきじでは斎藤道三の人生について話したいと思います!

斎藤道三ってどんな人

まず斎藤道三ってどんな人だよってなっている方もいるかと思われます。ですので、斎藤道三に関する簡単なプロフィールを作りました!

名前 斎藤道三

生没年 1494年~1556年

幼名 峰丸

出身地 山城国(今でいう京都)

裏のあだ名 美濃のまむし

なんで美濃のまむしなの

プロフィールにも書かれている通り、道三は美濃のまむしと呼ばれていました。まむしとはくさりへび科の毒へびです。なんで毒へび扱いされるほどの人材だったのか?それは下克上の様が凄まじかったからです。後ほど説明をしますが、道三は昔からの武士というわけではありませんでした。むしろ僧侶から油売りを経て下克上によって今の岐阜県南部でもある美濃を道三と道三のお父さんで乗っ取ったからです。

道三のお父さんは京で僧侶をしていたのに西村と名乗り、美濃で長井弥二郎に仕えるようになりました。ですが、力がついてきたのもあり、長井姓を名乗るようになります。さらに、道三がお父さんの後を継ぐと長井氏の惣領長弘を殺して長井家を乗っ取りさらに守護代斎藤の名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗るだけではなく、美濃守護土岐頼芸を追い出し、美濃を領しました。乗っ取られた側からしたら家督の侵害でしかありません。それもあって毒へび扱いなのかもしれません。

斎藤道三の人生

以上が斎藤道三に関する基礎情報です。では本題でもある斎藤道三はどんな人生を送ったのか?

1.僧侶と油売り

1494年に道三は今の京都でもある山城国で生まれました。お父さんはなぜか僧侶でした。えっ??って感じですよね。ですが、僧侶なんです。一応、道三の先祖は、北面の武士を務めたそうです。北面の武士とは比叡山の突撃を防止するために院政の時代に登用された部隊です。ですが、道三のお父さんの代から父の代に何らかの理由で浪人となり、山城国乙訓郡西岡へいくことになったそうです。

それもあって道三は11歳で京都の妙覚寺にて「法蓮房」を称したとされています。ただ、そこもしばらくして去ってから一般釈迦に戻り、西岡に帰ると今度は、油問屋の娘と結婚して、油商人となりました。決して生粋の承認ではありませんね。ただ、もし、武士の家系であった説が正しかったら商人肌も備わっていたのかもしれません。

2.土岐氏に取り入られる

油売りで色々な所を転々と歩く身でもあるんですよ。それもあって油売りのために旅にも出ていると、ある日、美濃で昔の弟弟子・日護房に再会し、彼の紹介で美濃の主語でもある土岐氏の老臣である長井長弘へ仕えるようになりました。これが道三にとって下克上のチャンスでもありました。長井長弘は、道三の才能を気に入ったこともあり、守護である土岐政房の長男・土岐政頼と弟の頼芸にも道三の存在を紹介させました。どういう経緯かに関しては不明です。

道三は武家界隈に足を踏み入れました。そんな時、土岐氏ではその後、家督争いが始まりました。内容は普通なら後継ぎは長男なのに弟の弟の頼芸を後継ぎにしたいみたいなノリです。結末は政頼が勝ち後を継ぎます。この状況に道三は不満になりました。実は道三は頼芸に気に入られていました。それもあって何とかして政頼を追い出して頼芸を守護にしたいのです。

じゃあ、道三は何をしたのか?戦の準備です。1527年8月に5,500の兵を揃えて政頼に夜襲を仕掛けて追い出させました。これ土岐頼芸が美濃守護なり、道三の思いが叶います。しかし、実務は長井長弘の役目で、土岐頼芸を守護にしただけでは道三はまだ不利です。そこで、道三は長井長弘夫妻を殺害乗りました。あれ、長井長弘って道三をスカウトした人よねと。その当時の道三は自分の利益になるならと考えが強いのでその御恩なんて無視です。これがまむし精神です。

3.織田家との出会い

やり方はあれですが、道三は下克上を着実と行います。ですが、みんながいい思いはしていないです。それ故に1540~1541年に土岐頼芸の弟や斎藤氏、長井氏などと対立します。結果道三は生き残りました。そして1541年に土岐頼芸と戦います。恩人とは抜きに。その当時、道三が動員できた兵は、数千~1万前後と言われています。それなのに、1542年に土岐頼芸を攻め込み、クーデターは無事成功しました。頼芸は美濃を追い出されて尾張に逃げ、頼芸の甥は母方の実家朝倉氏を頼るため越前へ向かいました。

尾張と言えばとある家を思い出しません?それは織田家です。ですが、この当時の家督は信長ではなく、信長のお父さんです。そんなことはさておき、頼芸は再起をはかります。道三にとっては朝倉軍と織田軍に攻められピンチではあったものの朝倉軍に撃破されても稲葉山城下で織田軍を返り討ちました。これが、織田家との出会いです。その後、織田家と道三は和睦のために信長と道三の娘の帰蝶様と結婚をします。完全に道三の勝ちです。

4.息子とのバトルと最期

道三は着実に美濃の領地をゲットしました。ですが、問題点がありました。それは息子です。それから6年後に道三は隠居・出家しました。息子とのバトルはここからがスタートです。息子とは言っても長男です。名前は斎藤義龍です。道三は、義龍を毛嫌いしていたといました。あからさまに次男や三男を可愛がっていました。これがバトルの原因です。

義龍側からしたら親にそのような扱いされたら怒りますよね?そのため、義龍はボイコットを起こします。なんと、まず、3男と4男を殺します。それから、親子合戦が始まります。その際に義龍は道三に自分は土岐家の子供だと言います。ここら辺は昔の時代なので読めないんですけどね。この戦いが長良川の戦いです。信長自身、道三のために援軍を出しました。明智光秀も道三を助けようとしました。ですが、それより早く道三は討たれました。これが道三の最期です。下克上したが、親子関係では問題があったということですね。

まとめ

前置きでも述べたように斎藤道三って歴史の教科書には載らないような人材ではあるのは事実です。おそらく、高レベルな学校でないと出ないのではないかと私は推測します。

ですが、このように調べてみると信長や明智光秀と歴史の教科書に載るような人物のベースを作ったと言っても過言ではないかと思われます。信長の妻こと帰蝶様も斎藤道三の娘ですし、織田家がまだ小さい時に和睦を結んだのも斎藤家です。また、明智光秀に関しても最終的には信長の部下にはなりましたが初めのうちは斎藤道三です。また、明智光秀が信長の部下になれたのも信長の出世こと斎藤道三の影響もあるちゃあります。実際に大河ドラマのシーンにはなりますが麒麟がくるで斎藤道三は信長のことを面白い奴とみなし、明智光秀に信長についていけと言ってます。

このように歴史的に有名な人のバックグラウンドを作った人でもあるのが斎藤道三ということです。ですので、私的には斎藤道三は広まって欲しい人材の1人でもあると思ってます。また、斎藤道三に関する記事は別記事にて書きたいと思っているので楽しみにしていてください!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう