これは運命?渋沢栄一と徳川慶喜との出会い!

どうも、りかちゅうです!皆さん渋沢栄一という人物はご存じかと思われます。そりゃ、2021年の大河ドラマの主役でもありますからね?そんな彼なんですが、実はある出会いの影響で江戸時代のラスト将軍でもある徳川慶喜の家臣になるんです(ドラマにもそのシーンはもちろんあります)。これはある意味運命でもあるんです。なんというのか、渋沢栄一が有名になる通過点の一種でもあるちゃあるんです(一応幕臣ですからね?)。要は渋沢栄一にとって大事な出来事であるということです。ですので、この記事では渋沢栄一と徳川慶喜の出会いについて話したいと思います!

渋沢栄一と徳川慶喜の人物像

いきなり2人の出会いについて話すのは唐突にもほどがあると思われますのでまずは2人がどんな人かについて話したいと思います!

渋沢栄一の人物像

渋沢栄一は先ほども述べたように有名な事業家の1人です。生まれは農商家の子供でしたが、良きご縁や成果があったことから有名な事業家になりました。しかも、日本で初めての会社を立てた人でもあります。なんか初めて作った人って響きがいいですね。それ以外にも初めて銀行を作ったり、今で言う東京ガスなどを立ち上げたりした人でもあります(実績に関する詳細はいつか書きますね)。ちなみに性格は真面目でおしゃべり、女好きです。

※渋沢栄一の人生についてはこちらの記事に書かれています!

資本主義の父!渋沢栄一の人生!

徳川慶喜の人物像

徳川慶喜は誰が見ても江戸のラスト将軍です!将軍の任期に関しては1年くらいしかなかったのですがその1年だけでも色々なことをやった人でもあります。具体例を挙げるなら大政奉還や戊辰戦争などインパクトのあるものだらけです。ちなみに性格は多趣味で女好きです(ここは渋沢栄一と同じですね)。趣味に関しては絵画、狩り、自転車などです。また、女好きに関してなんですが、側室の1人でもあった中村幸とは10人、新村信とは11人の子ども作るという凄まじい実績の持ち主です。ついでに豚肉ヲタクでもあります。とりあえず面白い人であるということは分かってくれると嬉しいです!

※詳しいことに関してはこちらを見てください!

徳川のラスト将軍!徳川慶喜とはどんな人か?

渋沢栄一が武士になれた理由

というかさ?渋沢栄一って武士生まれの人じゃないよね?それなのになんで武士になれたのと思いますよね?ここに関しては理由は簡単で幕府体制が弱まっていたからです。正直な話、家康時代でしたら身分の変更なんてできませんでした。武士に生まれたら武士。農民として生まれたら農民。このようにして徳川家の権力を保っていたんですけどね。ですが、渋沢栄一の生まれた時代は幕末で江戸時代初期みたいな威厳もないです。それもあって武士になることができました。生まれたタイミングは重要ですね。もし家康が将軍の時にに生まれてたら違う人生を歩んでいたかもしれませんね。

渋沢栄一と徳川慶喜の出会い

以上が渋沢栄一と徳川慶喜についての概要です。ではそんな2人はどのような出会いがあって主従関係になったのか?今から話したいと思います!

1.高崎城乗っ取り失敗

渋沢栄一は、高崎城乗っ取り計画が渋沢栄一の従兄こと尾高長七の反対で中止されてまった後、幕府の追及を逃れるために伊勢参りを口実に血洗島を離れました。ちなみに、高崎城乗っ取り計画とは1836年6月の黒船来航以来、外国の脅威に対する不安が日本中に広がったことから国内に行き場のない不満や不安が募ったことから、渋沢栄一、尾高新五郎、渋沢茂一郎の三名が中心に企てた計画です。それで、渋沢栄一は口実通りに伊勢参りをしました。

2.平岡円四郎からの呼び出し

そんな感じで時間を費やしていた矢先に平岡円四郎という人物から呼び出しがかかります。平岡円四郎とは幕末期の一橋家の家臣で徳川慶喜の側用人の1人です。このでき事によって渋沢栄一は徳川慶喜と出会うことになります。まず。、平岡円四郎は渋沢栄一達の事情を把握し、それを了解した上で一橋家への仕官を勧めました。それで、渋沢栄一は一晩どうするか議論をしてから、一橋家に仕官することにしました。ただ、困ったから仕官させてくださいというは残念ということで理屈をつけて志願しようことで二人の意見を建言した上で、お召抱えということにしていただきたいという感じにしました。

 

3.直接交渉する

ただ、渋沢栄一は仕官する際に直接申し上げたいという考えを持っていました。それに対して平岡円四郎ははじめはそのような事例がないから難しいと言いましたが結局、評議してみようということになりました。それで、交渉の結果、知らない人にそのようなことを許すわけにはいかないことから遠くからご覧になって徳川慶喜に認知してもらう必要があると言われました。そこで、渋沢栄一はその話に合意しました。ただ、徳川慶喜は乗馬な状態なため、渋沢栄一はひたすら走ったそうです。これが2人の初めての出会いです。まあ、今で言う、入社前にいきなり社長に会わせろみたいに要求して出会った感じですね。このようなことを踏まえても渋沢栄一の行動力はすごかったと思われます。

4.万国博覧会の一員になる

その後、渋沢栄一の主君でもある徳川慶喜(就任する前は一橋慶喜です。今更の解説でごめんなさい)が江戸幕府・第15代征夷大将軍となったこと同時に渋沢栄一は幕臣になりました。それで、1867年にパリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟でもある徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得てフランスへと渡航することになります。この出来事の影響で渋沢栄一は海外の発展様に感銘を受けました。また、この経験はのちの出世に繋がることになります。

江戸幕府後の2人

1968年に明治になり江戸幕府は終わってしまいました。それで、2人はその後どうなったのか気になりますよね?徳川慶喜は静岡に引っ越してからひたすら趣味に浸る生活を送っていました。写真や絵、狩りなど、先ほども述べたように多趣味であるからこそ、謹慎生活であっても楽しい人生を送っていたのかもしれませんね。

一方、渋沢栄一はといいますと謹慎生活を送っている徳川慶喜に会いに行くだけでなく、静岡藩の士官となりました。ただ、士官として生きただけではありません。なんと、1869年に静岡藩の借金返済をするために日本で初めての会社でもある「商所開所」という会社を作りました。商売での利益を借金返済にあてる感じですね。商売精神がここに表れてて素晴らしいです。そして、この出来事が有名な事業家となるきかっけであると言っても過言ではありません。

まとめ

青天を衝けに関しては今の所序章ではありますが、個人的には2人の出会いはなんか奥深いなと感じる一面はあると思っています。理由は2つあります。1つ目はこの出会いによって幕臣になれたことです。まあ、あの時代だからこそなれた話ではありますが、あの出会いがなかったら渋沢栄一は違う人生を歩んでいたのかなと思われます。

2つ目は江戸幕府が終わってからの縁があったことです。先ほども述べたように幕府が終わってからも渋沢栄一は徳川慶喜のそばにいて成果を作りました。成果とは日本で初めての会社のことです。要するに、この出会いがあったから渋沢栄一は出世したのかなと思われます。だから、このエピソードが印象に残るなと感じています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう