徳川家が260年続いた理由はパートナーの選び方:秀吉と家康の違い

どうも、りかちゅうです。

皆さん徳川家康と豊臣秀吉いう存在は知っていますか?三大天下の1人と答える人もいれば、その答えに加えて、「それがどうしたんだよ?」と思う人もいると思います。まあまあ、落ち着いてください。この質問には意図があるんです。なんの意図かと言いますとなぜ豊臣家は25年しか続かなかったのに徳川家は260年続いたかということです。考えたことがある人もいればない人もいるでしょう。実は徳川家が長く続いた理由のうちに隠された理由があるんです。それは女の選び方です。そこで、この記事では徳川家が長く続いた秘訣として、秀吉の女の選び方と家康の女の選び方を比較をして見解したいと思います!

 

秀吉と家康の決定的な違い
パートナーと言う名の女の選び

秀吉と家康には正室はいました。ですがかなり寵愛していた人と言われる人は2人とも正室ではないんです。実は側室なんです。だけど側室なんて沢山いるしその中の誰だよってなりますよね?(人数としては秀吉は300人くらい、家康は19人)特に秀吉に関しては300人いるからこそ家康以上に秀吉の寵愛した人はどんな人なのか気になると思います。

秀吉が寵愛した女
淀殿

生没年 ?〜1615年

幼名 茶々

別称 二ノ丸殿、西ノ丸殿、淀君

出身地 近江

人物像

浅井長政と信長の妹ことお市の方の子供。三姉妹の長女。かなりのお嬢さん。だか、浅井長政は信長と対立し戦死する。それでもってお市の方の再婚相手は秀吉との対立に負けて自害する。要するに2人の父を失ったという悲劇な一面もある。容姿は美しいが性格は起伏が激しいらしい。

 

家康が寵愛した女
阿茶局

生没年 1555年〜1637年

幼名 須和

別称 雲光院

出身地 甲府

人物像

武田信玄の家臣こと飯田直政の娘。1573年、神尾忠重と結婚したが、23歳のときにしべつしてしまう。その後、1579年に家康の側室となる。容姿も優れていたが武術も優れていた。それもあって徳川家では大活躍をしていた。

詳しくはこちらを見てください!

阿茶局ってどんな人:家康が寵愛した女性

2人の女選びの基準

それぞれが寵愛した女性の人物像は分かったと思います。淀殿も阿茶局も違いますね。見かけだけはどちらも優れていますが性格と出身地は明らかに違うのは皆さん分かることでしょう。というか淀殿と阿茶の局の性格の違いから女の選び方の違いを察することもできるちゃできます。だって淀殿はお嬢さんで阿茶局は武勇に優れるエリートさんですから。ですが、察したでは見解にはなりません。そこで、秀吉と家康の女選びの基準について詳しく話していきたいと思います。

 

秀吉の場合

本能的要素を重きに置いていた

秀吉が淀殿を好きになった理由は初恋の相手に似ていたのがきっかけです。秀吉の初恋というのは信長の妹のお市の方です。一目惚れでした。ですが、秀吉は残念ながらお市の方とは結ばれることは出来ませんでした。なぜならお市の方は初めに浅井長政と結婚しました。ですが、浅井長政は織田家に滅びてしまったので次に柴田勝家に嫁ぐことになりました。ちなみにお市の方は柴田勝家と共に自害して最期を迎えました。理由は柴田勝家と秀吉は対立関係にあったからです。それで残された三姉妹は秀吉の元に預けられたというオチです。複雑ですよね。戦国時代なんてこんな人間関係あるあるです。

要するに、秀吉は初恋が実らなかったのもあって三姉妹のうちお市の方に似ていた淀殿を側室としたんです。しかも側室のステータスの中でもナンバーワンです!もはや側室ではなく別妻扱いでした。ぶっちゃけたこというと正室の北政所さんとバトルもありました。どれだけ愛されてたかというのは別記事で詳しく話します。(具体例を言うと淀殿のために城を作っちゃうくらいです。)

このように一目惚れをした相手に似てるから寵愛してしまったという考えから内面で判断していないことが明らかだと思います。後ほど話しますがそのせいで失ったものは沢山ありますからね。要するに一時の本能ではなく内面で評価しないと豊臣家のようなオチになるということです。

 

家康の場合

自分の助けとなる人を選んだ

一方家康はなぜ阿茶の局を選んだのか?これはもう自分の助けとなるからに間違いないです。先ほども言ったように阿茶局は未亡人でした。ですが、家康は彼女の才能がすごいと評価したことから未亡人にはならずに自分の側室となって欲しいと言ったのです。確かに容姿も美しいと言われていたから容姿を気に入ってたのは事実でしょう。ですが能力がなかったらきっと家康は見向きもしなかったでしょう。なぜ家康は阿茶局の能力がすごいと分かってたかと言いますと馬術は弓術の能力が優れていると噂を聞いていたからだそうです。

また、その噂を元に自分でも確かめていたとは思われます。なんでそんなことが言えるのかと言うと実は家康だけが認めていたんじゃないんです。徳川家の家臣も阿茶局の実力を認めていました。この見解から見ても秀吉のように見かけだけで判断はしていないのは明らかであると思います。

 

秀吉が失ったもの
1.一族の存続

豊臣家って2代しか続かなかったですよね?原因は色々ありますが、最終的に大阪の陣で負けたことで続きはしませんでした。もしここで奇跡的に徳川家に勝つことが出来ていたら存続していたかもしれません。ですが、淀殿にはそのような能力はありませんでした。もしあったら大坂の陣でも関ヶ原でも、その他の事件でも豊臣家に有利になる可能性がありますから。こう考えるとトップの人間に好かれたら頭を使わないといけないってことになりますね。

 

2.調和された組織

これは秀吉が生きていた時も死後にも反映してしまいました。生きていたときは沢山ありましたね。正室の別妻のバトルはもちろんのこと政治的、お家的トラブルもありました。政治的トラブルは石田光成を嫌う人間とそうでない人間との争いが王道な具体例です。これは関が原の前からあったトラブルでした。お家的トラブルは跡継ぎです。実は秀吉は長年子供はできなかったです。なので、秀吉の従兄弟こと豊臣秀次に跡継ぎをする予定でした。そんな時淀殿が秀頼を産んでしまったのです。これが一応秀吉の2人目の子供です。(1人目は生まれてすぐにいなくなりました。ただ秀頼も秀吉の子供ではない説は濃厚です)そのせいで秀次は跡継ぎ取り消しみたいな扱いとなり結末は自害です。

もしそんな時淀殿が秀頼は大きくなるのに時間がかかるから取り消しするなという助言があったら変化はあったかもしれません。また、大坂の陣でも同じことが言えます。大坂の陣で豊臣方が負けてしまった1つの理由としてチームワークのなさです。真田幸村という兵が家康を追い詰めたのにもかかわらず。そんな時若い秀頼のかわりにまとめられるような女性だったらチームワーク性は高まっていたかもしれません。その当時秀吉がいなくなったのもあって淀殿は大阪城の城主みたいな物でした。なのに城主としての実績は語られてません。

3.正しい判断

これはかなり重要な事項です。豊臣家が滅亡の道に至ってしまった理由は沢山あるんですがその中でも王道なのが朝鮮出兵です。

秀吉は日本を統一した後、欲があったため朝鮮出兵をしました。ですが、秀吉は負けてしまったので大打撃を受けました。理由としては戦ってくれた人達に恩賞を与えられないくらいの状況で不満の声が沢山ありました。このことがきっかけで少しづつ崩れた感じですね。(他にも後継者事件などありますが)この話は別記事で書こうかと思います!

まあ、何が言いたいかと言いますと秀吉の貪欲を止める人がいなかったということです。みんなトップが言うからどうすることも出来ないってなってたはずです。ですが、そんな時トップに愛されてる人間が戦略家で暴走を止められる器量だったらきっと朝鮮出兵はなかったはずです。パートナーが戦略家でないと崩壊するってことはこれで分かったはずです!

また、これは秀吉の死後に起きた大阪の陣にも反映されました。大阪の陣の敗因の1つとして冬の陣で篭城戦にしてしまったことです。篭城戦は基本的に余裕が無い限りはやるべきでないです。切羽詰まったらもう野外戦が妥当です。なのに、大阪の陣では豊臣家は篭城戦にしてしまいました。戦力は余裕がないのに。理由は日本一の兵こと真田幸村以外篭城を選んだからです。そんなとき淀殿が戦略家で合理的に事を進めていたらおそらく徳川家を勝てていたかもしれません。これは先ほども述べた組織の話と同じことが言えます。

 

家康が得たもの
1.一族の存続

三大天下の中で一番長く続いたのは家康なのは明らかでしょう。(この記事では信長の話はしてませんが)そうそれはおそらく阿茶局が助けてくれたのは間違いないです。根拠となるのは関ヶ原と大坂の陣です。両方とも阿茶局は家康に同行しました。特に大坂の陣では和睦の時に活躍しました!阿茶局は和睦の場を仕切って徳川家が有利になるように働きました。また、家康が真田幸村に追い詰められた時はフォローしたそうです。

ただそれだけではないんです。家康がいなくなった後も徳川家を支えていました。これは家康の遺言でもあります。相当信頼していたんでしょうね。このように家康自身が生きている時もいなくなった時も戦略家として活躍できる人材だったからこそ徳川家は長く続いたんだと思います。まさに徳川家の母ですね。

2.天下統一

これは家康にとっての成果物でしょう。ただここまで来れたのも阿茶局という女性が家康の縁の下の力持ちとして活躍していたのは事実だと思います。たしかに天下を取るのにはかなり時間はかかりましたが、天下統一という勝利の道を手にしましたね。そのきっかけとなったのが具体例が関ヶ原の戦いと大坂の陣です。先ほども述べたように阿茶局は同行をし活躍をしていました。当時は女性が活躍しているなんて人なんて知られる機会が稀なのにここまで活躍するってトップのパートナーとしては素晴らしいことだと思います!このような女性がそばにいたからこそ家康は天下を取れたと言っても過言ではないでしょう。

 

まとめ

いかがでしたか?正直この見解って他の人達が見解してない点ではあります。なぜならば2人の違いも歴史的要因なんて数えきれないくらいにあるのは事実だからです。具体例を言えばホトトギスネタでしょう。秀吉は泣かせるようにする。一方家康は泣くのを待つ。このような表現がある時点で戦略も違うのは明らかです。長くなるのでここまでにしますが。それもあってたいていの説は戦略とか人物像などで言われることが多いんですよね。

ですが、それ以上に何気にパートナーの選び方ってなかなか重要だと思うんです。だってトップになったら誰かに助言を求めにくいんですよ。上だからこそヘタレな姿を見せられないし、判断に迷った時どうしようみたいな態度も見せられないからです。

そんな時、助けてくれるのは紛れもなく異性と言う名のパートナーです。トップの妻、側近(女性社長は夫)はある程度同じフェーズで話せるのは事実です。そんな人がトップが間違った物事をしたり判断をしたら正さないといけないんです。またはトップのパートナーとして頭を働かせてトップとして働きやすい環境も作らないといけないんです。要するに、トップのパートナーはただの本能を満たしてくれる人みたいな考えで選んだら秀吉のように失うものも大きいんです。一方で、家康は選び方だだ得たものも大きいです。ですので、この記事を参考にどんな異性がふさわしいか考えてみるといいですよね。自分がトップの人間とか関係なく。最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

※この記事では詳しく書ききれていないエピソードもあるので別記事にて色々話したいと思います。

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