和田家滅亡!泉親衡の乱と和田合戦

どうも、りかちゅうです!鎌倉殿の癒し枠かつ面白枠こと義盛ともそろそろお別れの時間が来ちゃいますね。そんなこと言わないでという方もいますが史実上無理です。さよならしないといけません。でも、なんでさよならしないといけないのか?それは義時と対立してしまうからです。義盛自身は義時へのクーデターは加担しなかったものの息子達が加担してしまったことによって対立が悪化してしまいました。そのせいで和田合戦が起きてしまいます。結果としては裏切りマスターの影響で義盛は戦死します。裏切りマスターは誰のことかは分かりますよね?では、一体どのような合戦だったのか?きっかけとなったクーデターの話とともに話したいと思います!

和田義盛とはどんな人?

和田合戦と言えば和田義盛です。これは鎌倉殿を見ている人ならば分かることでしょう。ですので、まずは和田義盛とはどんな人なのかについてから話したいと思います!

和田義盛とは三浦家の人間です。三浦家のメンバーみたいに思えばいいです。ですので、義盛はずっと頼朝の味方でした。源平合戦ではお得意の弓で功績を上げたそうですしね。そのときに色々あって平家に嘲笑されたときムキになったそうです。このように、子供めいたところがあるのは事実です。まあ、そんな話はさておき、頼朝がいなくなってからも13人の合議制のメンバーとして頼家や実朝に仕えていました。実際に実朝とは仲良かったそうです。ですが、義時と対立したことによって和田合戦にていなくなりました。

※詳しいことに関してはこちらの記事を見てください!

純粋かつ天然武将!和田義盛とはどんな人?

 

泉親衡の乱とは何か?

和田義盛に関する概要はこんな感じです。では、本題でもある和田合戦について話したいと思います。と言いたいところですがその前に話しておきたいクーデターがあります。それは泉親衡の乱です。それがあったから和田合戦が起きてしまったんです。では、どのような乱なのか?

1.義時へのクーデター

「泉親衡の乱」とは簡単に言えば1213年に頼家の遺児を将軍に擁立する計画が発覚したことから加担者が逮捕・処罰された事件です。なんで遺児をようりつしようとしたのか?それは義時を打倒しようとしたかったからです。ちなみに、名前の由来は首謀者である信濃源氏の泉親衡の名がつけられました。

2.起きたきっかけ

1203年に頼家が幽閉された後に暗殺されました。それによって実朝が将軍に擁立されました。それに対して北条への権力が高まり、源氏の御家人らは不満が募るりました。

そこで、首謀者である泉親衡はとあることを考えました。それは1211年に頼家の遺児である千手丸を擁立して義時を討とうという計画です。もちろん、密かに各地の武士に呼びかけていました。その際に自分の弟である安念坊という僧に頼んでいました。ですが、1213年2月に彼が捕まり、この計画が明るみになったことで事態が動き出します。

3.首謀者の処分

安念坊の白状に基づき加担者は逮捕されました。なんと300人以上だったそうです。もちろん、中心人物は死刑です。ですが、しかし、首謀者である親衡自身は、捕縛にきた工藤十郎らを殺害して逃亡しました。

4.和田家が加担

首謀者の親衡のことはよくわかりません。ただ、少なくとも言えるのが今まで味方だった和田家が加担していました。なんと義盛の息子ある義直と義重、甥の胤長が含まれていました。この事実を知った義盛は上総国からただちに鎌倉へ走り、実朝に許しを得ようとしました。その際に実朝は息子2人を許しました。ですが、甥の胤長だけは陰謀の張本人と目されて許されず、陸奥国の岩瀬郡鏡沼に流されました。ですので、鎌倉にある胤長の屋敷は間もなく没収され、義時が拝領しました。この結末に対して義盛は怒り和田合戦を起こすことになります。

和田合戦の流れ

簡単に言えば義時を打倒しようとする計画がバレてしまったことで加担した人を処分しました。その際に和田家の人間がいたことによっていざこざが起きたということですね。では、和田合戦はどのようなものだったのか?

1.胤長の娘の死

胤長の6歳の娘は哀しみのあまり病となっていなくなりました。子供ですし親がそんなことになったらショックを受けるのも無理ないです。また、先ほども述べたように本来ならば和田氏一族に移譲されるはずの鎌倉にある胤長の領地は義時により没収されたことによってさらなる屈辱を被りました。これに関しては義時もルール違反はしてきますけどね。ですが、あえて挑発させるためにそんなことをしたのでしょう。もちろん、義時を深く恨んだ義盛はその挑発に乗りました。そんなの鎌倉あるあるです。

2.挙兵と裏切り

とりあえず、義盛は縁戚の横山党、、波多野氏、本家筋の三浦義村に声をかけます。三浦がいれば最強と思うことでしょう。それもあって、戦いは五分五分ではありました。義盛は150騎で将軍御所こと大倉御所、義時邸、大江広元邸を襲撃しましたからね。強い軍勢であったことは事実です。ですが、予定通りにうまく行きませんでした。それは例の裏切りマスターの影響です。和田の味方をすると誓った三浦義村こと平六が北条に寝返りました。なんと平六は義盛の挙兵を義時に知らせたそうです。結果的に義盛側は追い込まれ由比ヶ浜への撤退させられてしまいます。まあ、横山党の3000余騎が応戦したことで勢いを盛り返しますが、和田の兵は疲弊し数も減っていきました。

 

3.息子の死と討ち死

劣勢となっている中、息子の義直が討取られると義盛は戦意を喪失しました。もう戦う甲斐なしとと泣いて悲嘆にくれていたそうです。そんな時に義盛まで討取られてしまいました。これでもう北条が事実上勝ったことになります。まあ、目覚ましい活躍をした義盛の三男こと朝比奈義秀は京への脱出に成功したそうです。その人がどうなったかに関しては分からないです。ですが、義盛の他の子息たちは次々と討死し和田家は滅びました。これはより義時はどんどん権力を持つようになります。

平六はなんで裏切ったの?

三浦と和田は仲間同士なのは分かりますよね?というか義盛は三浦義明の息子こと杉本義宗の子ですから。となれば、平六は裏切るわけないと思いますよね?それなのに裏切りました。きっと三浦と北条がつながっているから北条を選んだのは間違いないです。平六と義時はニコイチであるのは史実でも明らかですからね。ですが、それだけでは無いとも言われています。和田家が力を持つと三浦の勢力が弱まってしまうから裏切ったとも言われています。まあ、本当のことはどうであろうと平六だから裏切ることなんてあるあるなんですけどねwwwwwww。本当に侮れない奴です。とりあえず、義時を裏切ることはできないのは分かっています。

まとめ

義盛のロスで悲しむのは実朝だと思います。もちろん、他の人も悲しんでいるのは間違い無いです。あのキャラを嫌いになる人はいないです。鎌倉殿の義時だって滅ぼしたくないって気持ちはあったと思います。ですが、誰よりも悲しんでいるのは実朝って言いたいです。史実上でも親しかったと言われているからこそリアルでもそれなりの思いはあったと思います。鎌倉殿の時なんて心を癒せるのは和田義盛だとも言っていましたからね。このようなことを踏まえても和田合戦は重忠の時並に悲しい出来事かと思います(悲しさの意味は違いますが)。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう