小早川だけではない!東軍に裏切った西軍武将

どうも、りかちゅうです!関ヶ原の戦いで家康が勝ったのは裏切りが大きいです。裏切りって小早川のことって?そうですね。関ヶ原のアイドルの小早川が裏切ったことで数時間で決着をつけることができました。ただ、裏切ったのは小早川だけではないです。他にもたくさんいます。というか、小早川よりも裏切る気満々な人はいましたからね?どうやらスパイのために西軍にいただけだったそうです。このように、小早川以外にも西軍と言われていた人たちが東軍に寝返っていました。それだから西軍は当日に味方が動かなかったんでしょうね?では、誰が寝返ったのか?この記事にて話したいと思います!

関ヶ原の戦いとは?

江戸幕府ができたのは家康が関ヶ原の戦いに勝ったからです。しかもその関ヶ原の戦いなんですが戦国1、2を争うの大規模戦争です(大阪の陣も大規模ですが)。では一体どのような戦いだったのか?関ヶ原の戦いとは1600年9月15日に現在の岐阜県関ヶ原町こと美濃国不破郡を主戦場として行われた野戦です。関ヶ原の戦いに至るまで色々な戦いがあったものの、最終的関ヶ原で西軍と東軍がぶつかって戦い決着をつけたから関ヶ原の戦いと言います。ちなみに関ヶ原の戦いに関しては西軍と東軍合わせて15万人の兵力と規模が大きすぎたため未曾有の戦とも言われています。詳しくはこちらの記事を見てください!

戦国未曾有の大合戦!関ヶ原の戦いとは

関ヶ原のアイドル小早川!

関ヶ原の戦いでは外せない人物がいます。それは小早川です。彼が東軍に裏切ったから夕方には決着がつきました。ですので、関ヶ原の時の彼の状況を話しますね。

小早川って何者?

小早川は秀吉の正室のねねさんの実兄である木下家定の五男だそうです。となると、小早川は甥っ子ですね。そのため、幼い頃から秀吉の養子として養育されたのはもちろんのこと一時期は後継者の地位にあった。ですが、1593年8月に秀頼が誕生すると翌1594年に小早川隆景の養子に出されました。秀頼の方が大事になったからそうなったんでしょうね。詳しいことはこちらを見てください!

三成を裏切った男!小早川秀秋とはどんな人?

両軍からスカウトされる小早川

関ケ原の戦いの時小早川は19歳でした。

その際に小早川の軍勢は約1500名だったそうです。ただ8000名とする説もあるのの、小早川よりも軍勢が多いのは毛利輝元の41500人、宇喜多秀家の18000人、龍造寺家・鍋島家の9000人くらいである。有名どころと競れるなんて相当ですね。そのため、小早川は軍勢規模を誇るキーマン扱いをされていました。そのため、両陣営からの煽りはすごかったです。西軍なんて勝ったら関白にするまで言っていましたからね?ですが、結末はどうなったのか?

結局は西軍を裏切った理由

その小早川なんですが初めは西軍に味方をするしていました。小早川家に養子に出されたとはいえ秀吉に恩義を感じていたからです。ですが、小早川が最終的に選んだのは東軍です。家康からの煽りもあったからもありますが厄介払いされたことを思い返すうちに恩義が憎しみに変わったのかもしれません。また、小早川は三成のことは嫌いだったという話もあります。

小早川に便乗して裏切った人は誰?

このように、小早川の裏切りは勝敗を左右するものでもありました。ですが、裏切りは小早川だけではないです。便乗人がいました。この便乗人がいたから東軍の勝利が確定しました。ですので、便乗人の話もしますね。

1.奥平貞治

奥平貞治は家康の家臣の1人でもある奥平信昌の叔父にあたります。身内であるのの奥平貞治西軍についていました。ですが、当日は東軍を選びました。当日は小早川の真意を知るためにも家康は奥平貞治を軍監として小早川に送りました。その際に奥平貞治は小早川に東軍として出陣するよう催促したものの、小早川は傍観するだけで兵を動かそうとしませんでした。ですが、小早川秀秋が東軍と内通していることを知った奥平貞治の家臣こと松野重元は戦線を離脱しました。その時です。奥平貞治は松野隊と共に戦国のオオタニサン軍に襲いかかります。これでオオタニさんの陣は潰れました。このように、奥平貞治は東軍の勝利に大きく貢献しましたものの、戦いの最中に致命傷を負いこの世を去りました。

2.平岡頼勝

平岡頼勝は秀吉の家臣でしたが小早川が小早川家の養子となってからは小早川の家老になりました。ちなみに平岡頼勝の妻は黒田長政の従兄妹です。そのため、東軍である黒田長政と内通し稲葉正成と共にに東軍に寝返るよう勧めました。ちなみに小早川の死後は家康に仕え美濃徳野に1万石の所領を与えられました。

3.稲葉正成

稲葉正成は春日局の夫です。この方は小早川に仕えていた人です。また、小早川に東軍に寝返るよう勧めていました。関ヶ原の戦い終結後正成は家康に仕え美濃十七条に1万石の領地を与えられた後に下野真岡2万石に封じられました。

4.脇坂安治

脇坂安治は賤ヶ岳の七本槍の1人です。会津征伐では家康に味方をする姿勢を示していました。ですが、家康と合流するべく関東に向かう途中脇坂安治は石田三成に進路を遮られてしまいます。そのため、脇坂安治は1000人の兵を率いて仕方なく西軍に味方をしました。その際に三成から脇坂安治が与えられた役目は東軍と内通しているという噂のあった小早川の監視でした。そのため、小早川が西軍を裏切ると脇阪安治は奥平貞治と共にオオタニサン軍を攻撃します。また三成の城である佐和山城攻略にも参戦しました。

5.吉川広家

こいつは話さないといけない存在です。その理由は最後になれば分かります。まず吉川広家の主君は西軍の総大将の毛利輝元です。もちろん当然西軍として参戦することが求められました。ですが、吉川広家は東軍が勝利すると確信していたため東軍への寝返りを反対する安国寺恵瓊に内緒で黒田長政を通じて家康に内通しました。そのため、当日は西軍として参加しているフリをして毛利秀元軍や長宗我部盛親軍に出陣命令を出さず西軍の動きを抑えました。具体例としてはお弁当ネタです。「これから弁当を食べるからまだ出陣してはならない」と言ったことから「宰相殿の空弁当」という故事ができたそうです。歴ヲタでは有名な話ですね。また、三成が逃亡している時に三成を捕まえたのが吉川広家です。それ故に話さないといけない存在なんです。

このように、東軍に貢献したことから内通の時に結んだ密約どおり吉川広家は毛利領を安堵されると思っていました。ですが、反対に毛利領が改易されるという噂を耳にします。そのため、吉川広家は約束が違うと思い毛利家を残す代わりに自分自身にも毛利家と同じ罰を与えてほしいというという書状を送り毛利領は減封で済みました。

※それ以外にも裏切り者はいますが多いので割愛させていただきます。
まとめ

裏切りといえば小早川ですが他の人もかなり裏切っていますね。中には「ずっと西軍のフリしてました!笑」って感じの人もいますし。スパイのために西軍にいたとか事実上東軍じゃんって思っちゃいますねwwwwwwww。きっと三成には見込みないと思っていたのはもちろんのこと三成が嫌いだったからもあるのかなと思われます。どんだけ人望ないんだよと思いますけどね。あと小早川よりも裏切ることに乗り気な奴がいたことも笑っちゃいましたね。もうこれを見ても東軍が勝つ見込みの方があったのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう