誤解だったのに…。畠山重忠の乱とは

どうも、りかちゅうです!鎌倉初期ににそんなことあるのって乱があります。どういうことかと言いますと自分から謀反を起こしたわけでもないのに謀反を疑われて殺されるという乱です。しかも謀反の噂は虚言ですからね。噂とは流す側の都合で作られているものとはこういうことですね。ちなみにその乱の名前は畠山重忠の乱です。畠山重忠という人物含め畠山家は誠実でした。それなのに濡れ衣を着る羽目になりました。では、どうしてこんな結末になったのか?今から話したいと思います。読めば理不尽さが分かりますよ。

畠山重忠とは誰?

まず畠山重忠って誰だよって思う人はいますよね(鎌倉時代は乱や変のネーミングは人の名前であればいいって概念も何とかして欲しいですが)?鎌倉殿で言うならばイケメンな中川大志くんです。いや、そういうことじゃなくて…。ですよね。歴史上としてどんな人だったかですよね?もちろん話しますよ。

畠山重忠とは平家の血を持つ鎌倉武将です。ですので、初めは平家方でした。ですが、どういう理由かは読めないですが途中から源氏側に移りました。それ以降は源氏側に貢献をしました。頼朝も信頼していたそうですしね。また、性格はとにかく誠実です。嘘偽りのない人です。壇ノ浦の後に色々あって身柄を拘束された時は屈辱に思い断食をして自ら命を絶とうとしましたからね。ですので、坂東武士の鑑とも言われています。そんな彼ですが濡れ衣なのに謀反の疑いをかけられ最期は畠山重忠の乱にて討ち死にしました。

※畠山重忠に関する詳細はこちらの記事に書かれています。

坂東武士の鑑!畠山重忠とはどんな人?

畠山重忠の乱が起きた理由

とにかく、畠山重忠という人物は武士の中でもイケメンな人と思えばいいです。まあ、そんな重忠がどうして悲惨な死をしないといけないのか?今から話したいと思います!

1.宴での口論

重忠が口論したわけではないです。息子の畠山重保が口論しました。その詳細を今から話しますね。1204年11月に畠山重忠の息子の重保が京都守護の平賀朝雅邸で催された酒宴で平賀朝雅と口論となりました。内容はどういうものなのかは明確ではないです。ですが、平賀朝雅は武蔵国司です。また、畠山氏は武蔵国の有力武将です。それ故に対立したのかなと思われます。鎌倉殿では北条政範の死について重保が平賀朝雅に問い詰めたことで対立しましたね。まあ、どんな理由であれこの口論は一旦おさまりました。ですが、それが終わりではないです。始まります。

2.りくさんがブチ切れる

りくさんとは時政の後妻です。鎌倉殿を見れば分かると思いますが時政はりくさんのことを寵愛してますね。ちなみに、史実では牧の方と呼ばれています。それで、なんでりくさんはブチ切れたのか?口論があった翌年の1205年、りくさんは平賀朝雅から畠山重忠父子が謀反をしているという話を受けました。ちなみにりくさんと平賀朝雅は身内同士です。実は平賀朝雅はりくさんの娘の婿です。それ故にその話を信じてしまい時政に讒言します。時政はりくさんのために執権であ畠山氏を陥れるための陰謀を計画しました。また、時政は義時や政子らに計画を相談します。この2人は反対しました。なぜなら、それまで忠実だった重忠が謀反を考えないと思っていたからです。ですが、説得され参加せざる得なくなったそうです。というか、翌年に話すなんて女々しいにも程がありますね。

※説では本当はしたくなかったけどりくさんの圧が強くてしたみたいなことも言われています。

戦況と結末

要するに、りくさんのブチ切れにより起こってしまった乱と思えばいいです。それで、どのような結末だったのか?

1.罠に引っかかる畠山重保

1205年6月22日早朝、畠山重保に謀反人討伐の命が下りました。行き先は由比ヶ浜です。ですが、これは罠です。畠山側が謀反にかけられています。なのに、何でこんなまどろっこしいことをしたのか。それは陥れるためです。なんと鎌倉の御家人らは、軍兵を率いて由比ヶ浜に向かいます。もちろん重保も郎従3名とともに由比ケ浜に駆け付けます。そんな時、重保は三浦義村達の兵に取り囲まれ討たれました。要するに、合流という形で重保を討つためにあえて謀反人を討伐しろなんていうことを重保に伝えたということです。

2.重忠も討たれる

重忠は息子がいなくなったことも知らずに重保と合流するために135騎を連れて由比ケ浜へ向かっていました。もちろん、重忠も自分に謀反の疑いがかけられていることも知りません。ですが、二俣川にて鎌倉方の大軍と対峙した時に重忠は初めて自分に謀反の疑いがかけられいるだけでなく重保が討ち取られていることを知ります。畠山軍は少数です。ですので、鎌倉方の軍から、一度退いて合戦の準備をするようにすすめられました。そのようなことを言う時点でこの乱をよく思っていなかった人はいたのかなと思います。ですが、イケメン重忠は武士らしく潔く戦うべきと決し戦いを始めました。そのとき激戦だったそうです。ですが、重忠は矢を受けて倒れ首を討ちとられました。もちろん、その時に彼が謀反なんてしてないことを知ります。

畠山重忠の乱が起きた後

その後の流れはご制裁です。誰のご制裁なのか?それは時政とりくさんと平賀朝雅です。畠山重忠の乱が起きた翌日、鎌倉へ戻った義時は義時は時政に謀反の件が虚言だからこの件は気の毒だ時訴えました。時政も重忠に謀反の意思などなかったことを悟りました。ですが、それで終わりではないです。なんと、時政とりくさんは平賀朝雅を新将軍として擁立するために実朝を追いやろうとします。この策を知った義時と政子はブチ切れです。まずは時政邸から実朝を連れ出し保護しました。そして、時政とりくさんを追放、平賀朝雅を殺しました。これがご制裁です。

この一連の流れから権力を持つ者は時政から義時・政子へと移っていきました。やっと義時が最高権力者となりますね。

時政の心境

時政の心境としては複雑でしょうね。なぜなら、北条と畠山は家族関係ではあるからです。実は時政の娘と重忠は結婚していました。その人間を討つなんてなかなかなことです。もちろん、娘に恨まれる可能性だってあります。ですが、ワンチャン重忠を討ちたい気持ちはあります。それは権力的な話です。比企家もいなくなったことで時政は事実上は鎌倉での最高権力者ではあります。ただ、畠山は武蔵国最大の豪族です。これは時政にとっては不都合です。そんな時にりくさんが畠山家を謀反人扱いにさせたことで権力をより持てると思ったのかなと思われます。ただ、やり方が酷いのでもちろんご制裁です。

こんなことあっていいのか?

まだ本人に落ち度があったならばこのような乱があっても一理あるなと思います。ですが、この場合はこんなことあっていいのかとなるはずです。ですが、この場合は重忠は悪くないですからね。たしかに、息子さんが平賀と口論になったのは事実です。ですが、口論になったくらいでここまでするのかってなりません?謀反という謀反もないのにここまでするのは流石にやりすぎです。しかも、その後の流れもろくでもないですからね。だからこそ、先ほど話したご制裁はしないといけないと思います。

まとめ

誰のせいにしたらいいのか。とりあえず平賀はうざいなと思います。口論のことを根に持っているあたりが。まあ、元から権力のことで畠山のことをよく思っていなかったからりくさんに嘘の内容を報告したのかなと思います。また、りくさんも時政もやりすぎです。北条は色々陥れていましたがこの陥れほど酷いものはないです。ご制裁されて当然です。まあ、とにかくこんな乱は許せないです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう