倒幕ムード?桜田門外の変とはどんな事件か?

どうも、りかちゅうです!幕末にとあるクーデターが起こったのはご存知ですか?もしかして桜田門外の変のこと?そうです!そのことです。起きた要因てしてはその当時の大老だった井伊直弼が自分のアンチを弾圧したことによって起きたボイコットですね。結果的に井伊直弼は殺されました。え?てか、そんなことあっていいなと思いますよね?幕臣の人がこんな形で殺されるの?セキュリティなかったのかよと思いますよね。そうなんですよね。もうこの当時の江戸幕府なんてボロボロでした。それで、この事件が幕府の弱小さを証明した感じです。では一体どのような事件だったのか?この記事にて話したいと思います!

桜田門外の変とは?

桜田門外の変のことを知っている人もいれば知らない人もいるのでまずは桜田門外の変とは何かについてから話しますね!桜田門外の変とは安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城に登城する大老の井伊直弼の大名行列が桜田門まであと400mほど所で水戸浪士17人と、薩摩浪士1人により襲撃された事件です。ここから見ても井伊直弼のアンチは水戸藩の人達が多いことがわかりますね。結果としては井伊直弼は討ち取られ、首をはねられます。しかも、たったの数分で討ち取られたそうです。また、水戸浪士で唯一その場で討ち死にした稲田重蔵や井伊直弼のお供、首のない井伊の死体が横たわっていたそうです。考えただけでグロいですね。ちなみにその日は雪があったそうです。

桜田門外の変が起きたきっかけ

桜田門外の変が起きたきっかけは色々あります。色んなことが積み重なって起きた事件ですからね。ということで、次になんで桜田門外の変が起きたのかについて話しますね!

1.将軍継嗣問題

14代の将軍を誰にするかというので争っていました。候補としてはまず南紀派の徳川慶福(のちの徳川家茂)と一橋派の一橋慶喜(のちの徳川慶喜)です。徳川慶福が選ばれた理由としては11代将軍徳川家斉の孫だったからです。一方、一橋慶喜は阿部正弘が諸藩に意見を聞いてから発言力を強めた有力藩(水戸藩など)の人達だったため時期将軍候補となりました。それで、初めのうちは一橋派の方が有力ではありました。ですが、南紀派側の井伊直弼が大老になったことで徳川慶福が14代将軍になりました。それ故に一橋派がヘイトを溜めるようになりました。詳しいことはこちらを見てください!

江戸の跡継ぎ争い!将軍継嗣問題とは

2.安政の大獄

先ほども述べた安政の大獄です。井伊直弼が強行的に弾圧したことで起きた事件です。起きた理由としてはまず井伊直弼は天皇の許可なく日米修好通商条約を結んでしまいました。理由は色々あったんですけどね。それでこのような行動に反対意見を示した水戸藩の家臣たちは京都の公家の協力によって孝明天皇の書状を得ることができました。井伊直弼からしたらまた水戸藩かよとなりますよね。それで、これはやばいとなり安政の大獄を執行しました。それにより水戸藩のメンツは罰せられました。詳しいことに関してはこちらの記事を見てください!

尊王攘夷の要因?安政の大獄とは何か?

3.水戸藩の対立

安政の大獄で罰せられた影響で水戸藩はある対立が起きていました。どういう争いかと言いますと幕府に従うべきだという保守派と、井伊直弼に対立し諸藩とともに京都で兵をあげ朝廷を守るという急進派です。急進派に関しては薩摩藩に使者を送り、ともに計画を実行しようという盟約までも結んでいます。

まあ、これならまだいいとしてもそれ以上のことが起きました。それは水戸の急進派が保守派の暗殺未遂を起こしてしまいました。この状況を重く見た徳川斉昭は、急進派の藩士たちを厳しく処罰することにしました。ですが、急進派の藩士たちは脱藩して、水戸を抜け出しました。これはなかなかまずいですよね。集団で何かされたらやばいですし。そこで、脱藩した藩士の名前を幕府に伝え捕らえるように要請しました。このメンツが桜田門外の変の執行者でもあるんですけどね。

桜田門外の変の流れ

このような要因から桜田門外の変は起きました。では、当日どのような流れで桜田門外の変が起きたのか?今から話したいと思います!

1.井伊直弼暗殺計画

水戸藩の浪士達はとりあえずボイコットを起こそうという気持ちでしかないです。ちなみにメインメンバーなんですが「桜田十八烈士」(誰がいたかに関しては割愛します)と薩摩藩の有村次左衛門です。そのメンツは初め井伊直弼だけではなく、水戸藩に圧力をかけている安藤信正らも同時に襲撃しようと企てていまひた。ですが、警備が厳びしすぎて井伊直弼のみにしようとなりました。

2.いざ、実行!

安政7年3月3日、井伊直弼は桃の節句の行事のために江戸城に向かいます。井伊直弼からしたらこれからイベントあるぞ気分でしたよね。この日の天候は雪が降っていたので彦根藩の護衛は雪用の衣装を着ていました。また、その当時は大名行列を見るのがブームだったため民衆は武鑑というパンフレットを見ながらその状況を見ていました。これはいいチャンスです。なぜなら、襲撃する人達は民衆のふりをして井伊直弼に近づけるからです。それ故に彦根藩一行は桜田門に入る前に水戸浪士にやられてしまいました。しかも、雪用の衣装を着ていたり、刀に雪よけの袋をかぶせていたため井伊直弼側はすぐに攻撃はできませんでした。

もうこれは水戸浪士の勝ちですね。それで、水戸浪士の一人である黒澤忠三郎という人が井伊直弼が乗っている駕籠にピストルを打ちました。そして、他のメンバー駕籠めがけて刀を差し込みます。なんとわずか10分程度でした。雪が降っていたことが勝敗を左右したと言っても過言ではないですね。

桜田門外の変による影響

大老が殺されるなんて事件による影響は大きいものでした。では具体的にどんな影響があったのか?

1.幕府の影響

井伊直弼によって処罰されていた一橋派の人達は幕府に復帰します。でふが、幕臣の最高職の人が水戸藩の浪士にに襲撃を受けて殺されるという事実は幕府のメンツを潰すこと倒幕が加速する原因となりました。

2.水戸藩の影響

水戸藩側は喜びませんでしたむしろ、浪士らは脱藩者ゆえ大法に即し処置はもちろんのこと、関係者は水戸藩でも探索し召捕るという方針を立て、襲撃したメンバーの7人を斬首刑に処しました。その後は水戸藩の攘夷派で天狗党という組織を作って尊王攘夷運動をしました。

3.彦根藩の影響

井伊直弼が藩主をしていた彦根藩は藩が潰されかけますが幕府が井伊直弼は病死したと嘘の報道をしたことで改易はされずに済みました。ですが、桜田門外の変自体は民衆に目撃していたため井伊直弼をからかう川柳が大流行しました。民衆に言われるとか相当バカにされている感じしかしないですね。また、彦根藩は石高を35万石から25万石に減らされたり、桜田門外の変の時に護衛をしていた人は全員死罪となってしまいました。

まとめ

桜田門外の変の変と言ったら雪が降っているイメージがありました。桜田門外の変の絵を見ても雪が降っている感じが伺えますもんね。それもあって雪のおかげで水戸浪士が勝てたということにはすごく印象に残りました。もし雪が降ってなかったらどうなっていたんだろうと思いましたからね。きっと水戸浪士は勝てなかったかもしれません。要はタイミングって大事ですよね。しかも、雪の影響で幕府側は負けて倒幕に進むとはなかなかです。このようなこと踏まえても歴史って結果論だなと思いました。今後どんな形で倒幕していくのか楽しみにしています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございた!

りかちゅう