北条を栄えさせた男!北条時政とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!ようやく時政のことを書く機会ができました。それまではあえて書きませんでした。なぜならば、時政は追いやられる時がクライマックスなのかなと思ったからです。三谷幸喜だって時政の追いやりに関してはサザエさんの人物を使って説明していましたからね(詳しいことはまとめで書きます)?要するに、その日まで待っていたのかって?そうです!やっとそのシーンになってきました。私的にはやりすぎな一面もあったからそのような結末になるのも無理ないとは思いますけどね。まあ、そんなグダグダな感想はさておき、今から時政について話しますね!

北条時政のプロフィール

とりあえず、時政がどんな人かが分かるためにもプロフィールを見ていきましょう!

名前 北条時政

出身地 伊豆国田方郡北条

(今でいう静岡県伊豆の国市です)

生年月日 1138年

没年 1215年1月6日(享年78歳)

備考

伊豆豪族の子として生まれました。自分の娘こと政子が頼朝も結婚したことから頼朝の後援者として挙兵に協力しました。そして、鎌倉幕府の初代執権となって北条氏の繁栄の土台を築きました。このようなことを踏まえても、北条が栄えたのは時政の頃からです。

北条時政の人生

以上が時政のプロフィールです。では、彼はどういう人生を歩んだのか?

1.時政生まれる

1138年に時政は伊豆の田方郡北条の嫡男として生まれました。お父さんは諸説はありますが平時方といわれています。またお母さんは伊豆権守為房の娘です。どんな風に育ったのかは分からないです。ただ、少なくとも言えるのははじめての妻は伊藤祐親の娘です(死別してしまいましたが)。

2.娘の結婚を認める

時は1159年、平治の乱で平清盛に敗れた義朝の息子こと頼朝は伊豆国への流罪となりました。伊豆といえば北条の聖地ですね。もちろん、流人の頼朝の監視係を担ったのが時政です。それなのにとある出来事が起こりました。それは時政が京都での務めを果たしているときに時政の娘こと政子と頼朝が恋仲となりました。これはあかんことですよね。平家に目をつけられてもおかしくないです。それ故に時政は2人の仲を反対していました。ですが、政子と頼朝が駆け落ちするなど色々あり1177年には結婚を認めています。

3.頼朝に協力

時忠が伊豆領主となりました。これでは平家こ思う壺です。時政はその圧迫に不満を持ち始めます。そこで、1180年8月に頼朝の平家打倒計画に協力することを決意しました。初戦こと石橋山の戦いでは負けてしまったものの、その後は順調でした。具体例としては甲斐源氏の武田信義らを引き入れ、1180年10月に駿河国目代橘遠茂長田入道らに勝利しました。また、富士川の戦いでは平家を平維盛軍を敗走させ(平家は軍勢がきたと勘違いして逃げただけですが)伊東祐親を自害に追い込みました。ただ、その後は目立った功績はないそうです。きっと現場で戦うというよりも指示係になったのかと思われます。

4.亀の前事件にてブチ切れる

実は時政は頼朝と軽い仲違いをします。それは1182年頃のことです。時政の後妻のりくさんが頼朝の愛人である亀の前の存在を政子にチクりました。政子は激おこです。そこで、りくさんのお父さんこと牧宗親に命じて亀の前の邸宅をぶっ壊しました。その様を見て頼朝は牧宗親を叱責して髷を切り落としました。それを知った時政はブチ切れ。義時以外の身内を引き連れて伊豆へと戻っています。ただ、後で和解したそうです。

※亀の前事件に関してはこちらを見てください!

頼朝の浮気相手?亀の前と政子と大事件

 

5.幕府の成立

1185年に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡したものの、頼朝と義経の関係が悪化しました。そこで、時政は頼朝の代官として1000騎の兵を率いて入京します。その際に時政は法皇に義経を捕らえる名目で諸国・荘園への守護と地頭の設置、兵糧米の徴収を認めさせ初代守護職になりました。また、時政は鎌倉に戻るまで畿内の支配体制を整えました。

また、伊豆の有力者だった工藤祐経が亡くなったことで時政が伊豆を抑えるだけでなく1194年には遠江国の守護に就任しました。

6.抗争と初代執権

頼朝の死後、第2代将軍には頼朝の長男こと頼家が就任しました。ただ、頼家は独断的でした。そこで、13人の有力な御家人が合議制で政務を行うことになりました。13人の合議制です。もちろん、時政と義時は共にそのメンバーとなっています。その後時政は、梶原や比企などの有力な御家人を潰すだけではありません(詳しいことは別記事に書いています)。なんと、頼家を追放しました。そして、すぐに頼家の弟の実朝を3代目将軍にさせました。ただ、実朝は12歳です。そこで、時政が代わりに政をする事で圧倒的な実権を握りました。

7.時政追いやられる

1205年の6月に畠山重忠の乱で畠山家の人間を滅ぼしました。ただ、武士の鑑でもある畠山重忠は冤罪でした。それなのに討伐したことから内部の人々から反感を買った時政は義時により失脚しました。重忠の冤罪についてはこちらの記事に書かれています。

誤解だったのに…。畠山重忠の乱とは

それでも時政は諦めませんでした。なんと娘婿の平賀朝雅を将軍にさせるという作戦を立てました。もちろん、実朝の暗殺を画策します。ですが、政子と義時に阻止されました。もうこれはツムツムです。時政は執権職を剥奪されりくさんと共に追放されました。その後は伊豆に幽閉され、1215年までそこで余生を過ごしました。

時政パパは可愛いんだけどね

鎌倉殿を見ている方ならば時政パパは本当はかわいいことはご存知かと思います(1番可愛いのは佐々木のじいちゃんですが)。Twitterでも可愛い四天王の1人だとも言われていましたからね。私もそのように思います。特に笑顔が可愛いと思いました。

これは癒しですね。きっと動画の方がその可愛さが伝わると思います。お父さんにするなら時政パパでした。それなのに後半はピリピリしてきたせいで可愛さが失われていくのがショックでした。やはり権力を持ってしまうと大切なものが消えてしまうのかもしれませんね。

執権はいつできたの?

執権とは将軍を助けて政務を遂行する職種です。時政は初代です。では、いつからそのような職種ができたのか?きっかけは1203年9月です。時政は実朝を第3代将軍として擁立しました。その際に時政は一般政務と財務を取り扱う政所のトップとなりました。その時の時政はなかなか悪でした。なんと将軍抜きで自分1人の署名による「下知状」を発行して政務を執行するようになりました。これが執権という職種の成り立ちです。おそらく、それを良く思わない人達はいたでしょうね?そうじゃなかったら追いやられるというオチはないです。ちなみに初めて執権と記されたのは1203年10月5日に幕府の記録書こと「吾妻鏡」です。

まとめ

三谷幸喜は時政は波平、カツオは義時、サザエさんが政子という設定にしました。それで、カツオとサザエさんが手を組んで波平を追いやったと言いました。まさにそうですよね。正直な話この例えには笑っちゃいましたwwwwwww。まあ、こんなの昔の時代ならあるあるです。ですが、鎌倉殿の場合はなんか複雑でした。昔は共に平家討伐のために戦ったものの、時政が調子乗りすぎたせいで仲違いになり息子が追いやる。制裁とは言えどもお互いどんな気持ちだったのか。しかも、鎌倉殿では最後の最後に宴なんて余計に切なくなります。本当に困ります。まあ、とにかくなんか切ないです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう