なぜ関ヶ原の戦いで西軍が負けたのか

どうも、りかちゅうです!家康が幕府を開く前に関ヶ原の戦いというものがありましたね。正式に言うなら家康は関ヶ原の戦いに勝ったことで天下を取れたなんですけどね。このように関ヶ原と聞いても勝った側のイメージがあることでしょう。どの戦にも言える話なんですけどね。ただ家康の敵側でもあって三成率いる西軍に関してはなかなか触れられないかと思われます。これは私的にはもったいないなと。三成率いる西軍の敗因というのは奥深いものがあるからこそ。ということでこの記事ではなぜ関ヶ原で西軍が負けたのかについて話したいと思います!

関ヶ原の戦いとは?

そもそも論、関ケ原の戦いとはどのようなものなんだよって感じですよね。ということで、まずは関ケ原の戦いの概要について話したいと思います!関ケ原の戦いは1600年9月15日に起こった野戦です。関ケ原とは現在の岐阜県関ヶ原町です。なぜ関ケ原の戦いが起きたかと言うと家康を率いる東軍と光成が率いる西軍が9月15日に衝突したからです。

ではなぜそうなったのか?秀吉の死後徳川家は自分が権力を強めたい所からルール違反をしました。それで取り締まる人もいました。その一人が上杉家です。ですが、上杉家も築城や武備に力を入れ始めたため家康がいちゃもんを付け上杉と徳川は戦うことになりました。

一方、光成はアンチとのバトル関係で蟄居されていたもののこの状況では豊臣家に影響が出ると蟄居から抜け出し家康を倒そう計画を立てました。その際に家康が留守の間に伏見城を落城し光成の監視役の鳥居元忠を倒します。それを聞いた家康は上杉どころじゃないとなりターゲットを光成に変更し関ケ原の戦いがスタートしたということです。以上が概要です。関ケ原の詳細に関してはこちらの記事の書かれています。

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西軍のメンバーは?

以上が関ケ原の戦いの概要です。では肝心たる西軍メンバーは光成以外に誰がいるのか?まず、絶対にこいつは絶対だという人物が大谷吉継です。大谷吉継は光成の親友です。家康を倒すと光成が言ったとき共に頑張ろうと言ってくれたのが大谷吉継です。2人のエピソードについては調べればでてきます。

そして次に五大老のひとり、毛利輝元です。西軍の総大将は光成のイメージがありますが、実は毛利輝元でした。理由は光成は秀吉の側近であるものの権力がなかったため毛利輝元を総大将にしました。まあ、事実上の総大将は光成なんですけどね。他にも副将の宇喜多秀家や増田長盛・長束正家・真田昌行・上杉景勝が続きます。

西軍が負けてしまった理由

上記の内容が関ケ原の戦いの内容と西軍のメンバーです。では本題でもある関ケ原の戦いで西軍が負けてしまったのか?

1.光成の人望がなかった

ここは大事です。光成には人望がありませんでした。理由は真っすぐすぎて融通が利かないからです。それもあって加藤清正などの武断派は秀吉には御恩はあっても光成が嫌いで東軍につきました。まあ、これくらいならいいものの西軍内でも光成の人望のなさの影響で関ケ原の当日光成の言うことを聞く人がいないという事態もありました。その例が小早川の裏切りですね。やはり先頭に立つものの人望がないと組織としては成り立ちません。詳しいことはこちらの記事に書かれています。

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2.結束力がなかった

光成の人望がなかったのもありますが元から結束力というものはなかったといっても過言ではありません。西軍としていた島津義弘の隊は光成の言うことなんて聞かないで独断で動いた状態でしたし、大坂城にいた毛利輝元も、五奉行の一人である増田長盛が裏切りという噂があったのもあり城を動けなかった状態でした。それもあって積極的に戦っていた三成や宇喜多秀家が頑張っても勝つことは不可能でした。しかも小早川などの裏切りが最後の最後にあったらもうオワコン状態ですね。当日動かない人がいるのは致命的です。これは光成にはリーダーの器がないことが露呈されていますね。

3.秀頼が参加しなかったから

家の権力とは大切です。もし三成らが豊臣秀頼のために戦うんだという気持ちがあり。打倒徳川というモットーを打ち出したとしたら、西軍に加担するような武将達はいたかもしてません。確かに光成は武断派とは仲が合わなかったのは事実です。ですが、豊臣家への忠誠心は同じなため豊臣秀頼という旗印のもとへ結集し上手くいっていたかもしれません。ですが、残念なことに秀頼の母、淀殿に反対され実現できませんでした。豊臣家を守るために頭を使わない淀殿も淀殿ですね。おそらくトップの奥さんになる器のない人ではあるかと思われます。

4.女のバトル

女のバトル?何それって?実は淀殿と秀吉の正室のねねはバトル関係でした。理由は秀吉が淀殿のことを寵愛しすぎていたからです。正直な所淀殿のポジションは側室ではなく別妻でした。これはねねにとっては不都合な話です。正室というポジションなのにもかかわらず別妻という人がいるということは。また、秀吉が寵愛していたものあり余計に嫌だったのかもしれませんね。

それで関ケ原なんの関係があったのかって?それはねねの発言権です。さすが正室だけあって権力はありました。それもあってねねが家康を倒せと言えばみんなして言うことを聞いていました。ただ、ねねに関しては後継ぎの秀頼がいるとなるとそのような発言はしませんでした。そりゃ説はあるものの少なくとも秀頼はねねの子供ではありませんからね。

 

もし西軍が勝っていたら

もし西軍が勝っていたら少なくとも言えるのは今の首都は東京とは限らないということですね。東京が中心地になったのは家康が天下を取った江戸時代以降でした。正直な話、家康が江戸に配属されたから栄えたのであって家康が配属される前はド田舎でした。そう考えるともし西軍がかったら今の首都が東京にはならない可能性があります。

また、再び豊臣家が統治するかといったらそうとは限らない気がします。タイミング悪いことに権力となっていた人がいなくなっているのもあり幼い秀頼の代わりに統治できるとも言い難いです。また、秀吉がいなくなってから独立したいという武将もいたのも考えると戦国の世が再び訪れる可能性もなくはないです。

まとめ

やはり西軍が負けたのは三成の人望は大きいですね。本当はいい人なんですが欠点が表に出過ぎて嫌われた感じですけどね。もし、三成が人望があったならばみんなして打倒家康。守るぞ豊臣みたいにはなっていたとは思います。ですが、現実はそうはいきませんでした。むしろ、秀吉にはご恩はあったものの三成は嫌いだから東軍になった人もいます。それくらい三成の影響は大きかったということです。また西軍の人達でも裏切りや当日動かないはありましたからね。

要はチームワークというのはトップに立つ者が影響するということではあります。これはどの戦にも言えることです。結局はチームワークが強くないと最終的には負けてしまいます。それが顕著に現れているのが関ヶ原の戦いですね。ただ、負けた側はなかなかピックアップされないネタなので今回記事として書きました。私からの見解は上記通りですね。何事にも組織力というものを強めていくことで勝負は有利な方向に行き、組織力が弱かったら衰退の道しかないということです。ですので、チームワークというものを大切にしていきましょう!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう