慶喜の政策!慶応の改革のは何か?

どうも、りかちゅうです!徳川慶喜といえば誰が見ても江戸幕府のラスト将軍ですね。それがどうしたんだよって?実は徳川慶喜は江戸幕府で最後の改革をした者でもあります。その名は慶応の改革です。由来はその当時の元号が慶応だったので慶応の改革と名付けられました。安直にも程がありますねwwwwww。まあ、そんなことはさて置き、この改革は幕末だけあって江戸幕府にとっては大きな改革の1つではあります。では具体的にどのような改革なのか?この記事にて話したいと思います!

徳川慶喜ってどんな人?

慶応の改革は徳川慶喜が行ったものです。だからこそ、徳川慶喜がどんな人なのかは分かっておいた方がいいのかなと思われます。ですので、まず初めに徳川慶喜とはどんな人なのかについてから話しますね。

徳川慶喜とは江戸幕府のラスト将軍です。正式に言うと15代将軍です。まあ、将軍とは言えども将軍だった期間は1年もないんですけどね。それでも、ラスト将軍として大政奉還や戊辰戦争など色んなことをしていたのは事実です。江戸幕府の締め担当と思っておけばいいです←。江戸幕府が終わってからは趣味に生きていたそうです(1902年に貴族院議員に就任しましたけど)。

また、性格は多趣味で女好きです←。写真や釣りなどが好きだったそうです。大河ドラマ「青天を衝け」ではマジレス野郎ではありますが本来の徳川慶喜は分からないです。まあ、少なくとも個性的な性格だったのは間違いないです。

※詳しいことに関してはこちらの記事を読んでください!

徳川のラスト将軍!徳川慶喜とはどんな人か?

慶応の改革とは

雑ではありますが以上が徳川慶喜の人物像です。それで、本題でもある慶応の改革とはなんぞやと思いますよね?ですので、今から話しますね。

慶応の改革とは徳川慶喜が15代将軍就任してから幕府を立て直すために実行した改革です。徳川のメンツのためにも何とかしたいという気持ちはあっておかしくないですしね。ただ、あの当時の幕府はボロボロでした。そんなことはさて置き、詳細としては慶応の改革は1866から1867年に行われました。ちょうど就任した直後にやった感じですね。それで、徳川慶喜が将軍になったらフランスからの協力を得て、軍事改革や兵庫開港を推進し、徳川家の主導権回復に努めました。だから、パリ万博も招かれましたしね。ただ、慶応の改革のほとんどが実施されたことで幕政制度は崩壊していきました。

慶応の改革の内容

このように、慶喜は幕府を立て直すために慶応の改革をしたものの悪い方向に向かってしまいました。では、どのような改革をしたのか?

1.横須賀製鉄所の建設

1865年9月に幕府はフランスから240万ドルの借款と技術援助のおかげで横須賀製鉄所の建設を始めました。後に拡張して横須賀造船所と改称しました。また、それと同時に横浜に小規模製鉄所を建設する計画も立てました。またフランスは借款の見返りとして、日仏の商人に組合を結成させ、生糸の独占的な貿易を許可しました。

2.兵庫の開港

その当時、兵庫港の開港を求める運動はありました。「青天を衝け」でもそういうシーンはあります。ですが、孝明天皇は京都に近い兵庫港の開港を拒んでいました。それもあって議論が進展しなかったのが現実です。そこで、徳川慶喜は老中と共に上洛し、朝廷を説得しました。その結果、1866年5月24日、兵庫を開港しました。

3.幕政改革

なんと老中・若年寄・三奉行制度を廃止しました。その一方で、陸軍・海軍、国内事務、貿易、会計、外国事務などを設置しました。何でそんなことをしたのかと言いますと徳川慶喜はヨーロッパの行政組織を取り入れたかったからです。ちなみに長官には老中が任命されました。

4.財政改革と経済対策

その当時、幕府は財政難でした。そこで、財政整理や新税賦課を推し進めたました。具体的には産業や軍事力の近代化を行う感じですね。また、経済対策として、産物会所の設置による全国市場の支配もしました。それいがいにも日仏会社設立による貿易独占、蝦夷地の鉱山開発などを計画も建てました。

5.軍事力の近代化

フランスとの協力を得て、横須賀製鉄所を建設するなど産業や軍事力の近代化を試ました。また、兵器だけでなく、フランス軍事顧問団を招いて陸軍士官教育に力を入れました。

改革をしてどうなったのか?

改革してどうなったか?先ほども述べた通り徳川幕府は崩壊しました。では、どういう感じで崩壊したのか?

1.徳川慶喜の企み

改革はしていったものの、薩長同盟や明治天皇即位による盛り上ったことから幕府を立て直すのは困難でした。それ故に徳川慶喜は1867年に大政奉還を行います。それによって政権を朝廷に返上しました。

これで事実上、江戸幕府は終わりを迎えます。ですが、実は徳川慶喜にはとある企みががありました。それは大政奉還の後も徳川慶喜は征夷大将軍であり続け、政治政策に参加するということです。やはり、朝廷が250年間ほどは政治を行いないとなると不安定です。そのため、徳川慶喜は実権は自分が握れるのではないと企んでいましたが、その企みが成功することはありませんでした。

2.戊辰戦争のはじまり

征夷大将軍として残った徳川慶喜の企みは失敗どころか大きな戦争のきっかけとなりました。詳細としては新政府は徳川慶喜を疎ましく思っていました。一方で旧幕府は新政府の政治政策に不満を募らせていました。この対立の影響で1868年の戊辰戦争を引き起こすことになったのです。結果は幕府側の負けです。なんと、鳥羽・伏見の戦いでは徳川慶喜は逃亡に等しい行動をとり、敵の約3倍の勢力がありながら敗北したそうです。ちなみに、新撰組は幕府側として参加していました。

てか、徳川慶喜は逃げたからこそ、どうやって戊辰戦争は終わったのって?簡単に言うと箱館戦争で、旧幕府軍の榎本武揚(たけあき)らの降伏によって終戦となりました。この戊辰戦争によって江戸幕府は完全に終わり、明治政府が新時代を築いていくのです。

改革の頃渋沢栄一は何をしてたか?

番外編の話です。2021年の大河ドラマの主役や渋沢栄一なのでこの話もしたいなと思います。ぶっちゃけたことを言うならば渋沢栄一は徳川慶喜の幕臣ですしね。

前置き長い。早く話を進めてくれって?ごめんなさい。本題なんですが渋沢栄一はパリ万博に参加していました。理由を簡単に言うとフランス側に来て欲しいと言われたからです。それで、渋沢栄一はフランスで資本主義などを学びました。この学びのおかげで渋沢栄一は出世したと言っても過言ではないです。そこら辺に関してはこの記事から逸れてしまうので知りたい人はこの記事を見てください!

資本主義を学んだ?渋沢栄一とパリ万博

まとめ

幕府を整えようとしたものの結局は幕府側の負けとなり江戸から明治に変わっていってしました。これを見てやはり、組織というものは初めが強いけど段々と弱くなるものだなと思いました。実際に江戸幕府は家光がいなくなってからはグダグダ劇場でしたしね。ただ、徳川慶喜も何とかしてでも江戸幕府を守りたかったという気持ちはあったのかなと思われます。そうじゃないと企みなんて持たないですしね。ただ、私的にはそのやり方がいいのかどうかに関してはノーコメントです。この話をするのはタブーなので…(分かる人には分かります)。ですが、最後まで頑張ってたんだなということは分かってもらえると嬉しいです!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう