江戸が終わる合図?大政奉還とは何か?

どうも、りかちゅうです!江戸幕府の終わりの合図といえば何でしょうか?それは大政奉還です。大政奉還の影響で徳川家は政治を天皇に譲ることを示しました。それによって江戸幕府は終焉を迎えたと言っても過言ではありません(それ以降も色々ありますが)。それからはもちろん、明治維新の始まりです。日本にとっては地獄の道といっても過言ではありません。ただ、大政奉還がどのような経緯で行われたのかよと思いますのね?ということで、この記事では大政奉還とは何かについて話したいと思います!

大政奉還とは何か?

大政奉還といえば江戸の終わりとも言っても過言ではないです。ただ、どういう形で終わりを迎えたのか?今から話したいと思います!

大政奉還とは1867年に15代将軍の徳川慶喜が朝廷の明治天皇に政治をする権限をお返しした出来事です。ちなみに大政奉還の大政とは「政治を行う権限」という意味があります。また、奉還とは「お返しするということ」という意味があります。このようなことを踏まえると言葉通りって感じなんですけどねwwwwww。それで、徳川慶喜に大政奉還した方がいいよと言ったのは土佐藩主の山内豊信だったそうです。

なぜ大政奉還が起きたのか?

先ほども述べたように助言があったから大政奉還は実行されました。それで、なんで助言なんてあったんだよと思いますよね?ですので、今からそこら辺を話しますね!

理由を簡単に言いますと討幕派による武力討幕や混乱を防ぐためです。その当時、薩摩や長州は武力で幕府を倒そうとしていました。一方で、会津藩や桑名藩は実力を使ってでも阻止しようとしていました。このような状況だと無秩序な内乱になりかねないです。そのように考えた徳川慶喜はたとえ、政治を朝廷に返しても天皇が政治をしていない時間が長かっただけあって実際に国をまとめるためには徳川家は無視できない。だからこそ、いずれ徳川家にも協力要請がくるしその時に、天皇のもとで徳川氏主導の政権を作ればいいと考えたのです。ですが、現実にはそうなりませんでした。

大政奉還の経緯

先ほども述べたように徳川慶喜は大政奉還をしたとしても徳川家が必要だと考えてはいました。ですが、実際は天皇がメインになるようになりました。ここら辺は日本史を見れば分かるはずです。ただ、それには色々な経緯ががあった影響で徳川慶喜の思惑通りには動きませんでした。では、具合的にどのような経緯だったのか?

1.強まる外圧

1853年にペリーが浦賀に来航しました。もちろん、日本に開国してもらいたいからですけどね。まあ、これを機に日本を乗っ取りたかったのは見え見えです。なぜなら、ペリーはとある組織の人だからです。まあ、ペリー来航のことはことはこちらを見てください!

なぜペリーは黒船で日本に来航したのか?

その影響もあって日本は国際社会の渦に放り込まれてしまいました。これは悪い影響ですねぇ。特に世界各地で植民地争いをしていたイギリスとフランスが日本をどうしていくかに関してで争っていた感じではあります。それで、フランスは幕府に、イギリスは薩摩や長州などに接近します。これぞ二股大作戦です!どういうことかは察してください!そして、1858年に日米修好通商条約を結んでからは貿易面での問題も発生していました。なんか日本の終わりと言っても過言ではありません。

2.混乱する幕政

日米和親条約を実行した井伊直弼は、安政の大獄で反対派を叩き潰しにかかりました。かなりの強制感はありましたけどね。その当時徳川慶喜は水戸の人間故に政界から一旦去らないといけない状態でした。ですが、安政の大獄で恨みを買った影響で井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されてしまいます。時間の内容を簡単に言うと大名行列の際に井伊直弼が乗っている駕籠を襲撃した感じです。桜田門外の変に関してはこちらの記事を見てください!

倒幕ムード?桜田門外の変とはどんな事件か?

これ以降、幕府の組織力は低下しました。とある組織はそれを狙っていたのかもしれませんね。

3.尊王攘夷が激化する

開国したことで幕末の貿易は物価の急上昇と金の海外流出をもたらしました。戦国時代以降、日本はゴールドラッシュだったのにもかかわらずこれを機に開国してからゴールドラッシュではなくなってしまいました。それ故に庶民は生活苦になりました。そこで、これは幕府のせいだ。今すぐ外国を追い出せという発想や日本を天皇中心の国にするんだといった主張が流行りました。それが尊王攘夷です。そのせいで今でいうデモみたいなものは普通にありました。

4.公武合体と禁門の変

ここまで来ると幕府は自分たちだけで対応するのには限界があると考えました。そこで、天皇の力を借りました。それが公武合体です。それを実行するためにも孝明天皇の妹、和宮と14代将軍徳川家茂を結婚させました。余談ですが大河ドラマ「篤姫」では堀北真希が和宮をやっていました。

そんなことはさておき、この動きに危機感を持ったのが尊王攘夷派の長州藩です。1863年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は兵を京都に差し向けます。その影響で長州藩と薩摩・会津・桑名藩で対立しました。それが禁門の変です。もちろん、長州藩が敗れました。

5.長州征伐と家茂の死

幕府は朝敵となった長州征討の開始しました。ただ、一度は幕府に従うと誓いました。それなのに、高杉晋作らが長州藩で政権をとると再び幕府に歯向かいます。それで、また、長州を攻撃しますが、薩摩藩が出兵を拒否するなどで上手くはいきませんでした。そんな時14代将軍徳川家茂がいなくなりました。それ故に幕府の権威も何もない感じになりました。

大政奉還のフロー

このような経緯から徳川家が大政奉還をしてもなんとかなるなんてことはできませんでした。とある組織もなかなかやりますなぁと思ってしまいますが。では、そんな状態から大政奉還はどのように行われたのか?

1.孝明天皇の死

1866年12月、孝明天皇がいなくなってしまいました。これは、幕府にとって大打撃です。理由は簡単で孝明天皇は積極的な公武合体派だったからです。それで、新たに即位した明治天皇は幼く、朝廷内では誰が代わりに主導権を取るのかの争いが活発になりました。

2.倒幕活動が活発になる

1867年10月13日、薩摩藩主と長州藩主に徳川慶喜・会津・桑名を討伐する秘密の命令が下されました。ちなみに、この密勅は岩倉具視などが中心になって出されました。それによって徳川慶喜追い詰められてしまいました。

3.大政奉還の実態

討幕の密勅が出された日の翌日、徳川慶喜なんと突然朝廷に対して政権を返上すると申し出ました。まあ、元から土佐藩に提案されていたことですけどね。土佐藩前藩主の山内豊信は幕府も加えた形で日本の政治を行おうと考えていました。それには武力による倒幕を避け、徳川家の力を維持するには大政奉還した方がいいと考えたのかと思われます。

 

まとめ

その後の流れとしては徳川慶喜を追い詰めようとする王政復古の大号令が出たり、戊辰戦争が勃発するようになりました。私的にはこの出来事は日本は悪い道に行くのかなと思っています。実際に明治維新はとある組織の革命ではあります。簡単に言えば日本を乗っ取ると思えばいいです。それ故に今後の日本はいい未来ではないのかなと思われます。まあ、そこに関しては察してくれると嬉しいです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう